黄金の簒奪者たち:その92
田中角栄の後見役または側近として支えつつ、ファンドマネーのおこぼれにあずかった政治家たちのことを「華麗なる7人衆」などという。この7人衆とは岸信介、佐藤栄作、竹下登、中曽根康弘、宮沢熹一、後藤田正晴、金丸信のことである。まるで戦前の満州の支配者たち「弐キ参スケ」の戦後版みたいなものだが、岸信介はいわば時代転換のキーマンとして戦前のDNAを戦後の政治家たちにバトンタッチした人物であった。
田中角栄は”公私の利殖確保に長けた稀有の天才的政治家”として知られた存在だったが、その並外れた金銭感覚が仇となって、後に自滅に追いやられる。田中を追いやったのは、自分たちの言うことを聞かないことに憤怒したアメリカのゴールド・カルテルの代理人であり国務長官を務めていたキッシンジャー、そしてアメリカの命令に従う明治のDNAを身に宿した政敵のエリートたちである。一方、田中、竹下、金丸を除いた7人衆の他者は高級官僚出身ではあるが、いわゆる清濁併せ呑む党人派の臭いが濃い政治家たちであった。
この7人衆が残した”功績”は3つある。国民選挙の投票用紙はカネで買える運用体制として議会制民主主義に定着させたこと。もう1つは秘密ファンドを元手にニッポン経済の底上げを図ったこと。そして3つ目は、秘密資金を扱う国際金融ブローカーたちを量産したことである。その中には日銀、財務省、都市銀行のエリートOBたちも多数含まれる。しかし、田中はエリートのDNAをその体質に採り込んでいなかった大衆受けする政治家だった。なにせ高等教育を受けていないにもかかわらず努力一筋で首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」「庶民宰相」「豊臣秀吉」とも呼ばれた。
つまり、田中は明治の元勲エリートたちに欠けていた純血の日本人の体質を継承していたのであり、明治維新以来、日本を汚し続けてきた明治のインチキなエリートたちのいわば反面教師なのである。田中は公私に渡る利益獲得への執念を持ち続けていたが、深い人情の機微に対する敏感さも持ち合わせていた人物だった。病気療養で入院していた若手政治家のもとに現れて、見舞金として分厚い封筒を置いていくといった芸当をあちらこちらで自ら行ったことによって、情けをかけられた人間たちはみな田中シンパになってしまった。
こうした現ナマを使った人心掌握は至るところで行われたが、それはステーツマン(公人)の立場を活用しながら、その影で土建屋のオヤジとしての商人政治家としての力を発揮した利得活動ぶりは群を抜いていた。
◆郵便貯金を使った利殖とアメリカの怒り
高橋五郎氏の『天皇の金塊』には、田中角栄がいかに天皇マネーを使えた政治家だったかが克明に描かれている。「岸信介の300万円を献金して郵政大臣のポストを買ったと言われる田中の着眼点はアメリカの金融界のプロを唸らせた」とあり、「国家を顧客に見立て、国家が保証する郵貯マネーを根こそぎいただいてしまうロスチャイルド商法そのものだからだ」とある。その意味では、アメリカの指示通りに「郵政民営化」を行うだけで、利殖をすることすら考えられず、郵貯マネーを全てロスチャイルドとロックフェラーに提供してしまった小泉純一郎などは足下にも及ばない政治家だったのである。
ここからが田中の真骨頂であった。田中は顔の見えない大多数の国民が毎月積み立てている郵便貯金の残高を利殖の金城湯池と見立てたのである。ちりも積もれば山となるで、郵便貯金の口座に集まる目立たない日銭は途切れることなく、しかも集金コストも国家持ちであり、国家が破綻しない限り、毎月毎年ごとに膨大な「カネ」が積み上がるのだ。そして、田中が郵政大臣の椅子を狙ったもう一つの理由は、プールされた秘密信託基金(ファンド・マネー)を郵貯収入に見合った金額と等価交換できる「黄金ファンド」の換金システムにあった。
国家の一般会計の支出項目を利用して、裏金を合法的に表のマネーとして浮上させる「すり替え作戦」が可能なことを田中は理解していたのである。これは金融業界が使う奥の手であり、広義のマネーロンダリングそのものだが、田中の手法は、2000人の特別群と警察権力を動員して「黄金の百合」の発掘と独占を図ったマルコス大統領とは比較にならないほど繊細な頭脳商法だったことが分かる。金儲けの事案が、順法かつ妥当性に従った事案かどうかの法的な判断を「解釈」で決着する田中の手法を、マルコスも見習うべきだったのである。
この田中流の手法は総理大臣に昇り詰めることで一挙に開花する。「黄金ファンド」を元手に財務当局をフル活用する田中流のマネー・ゲームは佳境に入る。田中が編み出した換金スタイルは、ニッポン経済の発展を支える利得構造のお手本になった。つまり「黄金ファンド」を基盤に、金融と産業の両方の世界が安心して限りなくマネーを投資して循環生産性を高めるというビジネスモデルを田中は国内で構築できたのである。これは見事としか言いようがないものだ。
田中角栄はアメリカの金融界をも唸らせたアイデアと実行力をもっていたが、次第にアメリカの怒りを買うようになる。1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった。これは後に尾を引くことになる。
さらにアメリカ、特にキッシンジャーの不評を買ったのが1972年(昭和47年)9月、日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談し、9月29日、両国の共同声明によりアメリカより先に日中国交正常化を実現してしまったことだった。田中はこの訪中をアメリカに知らせてなかった。正確に書くと、”日中国交正常化を目指す”ということは事前に駐日大使にもその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にはすでに織り込み済みの話ではあった。
ニクソン大統領が中国を訪問したのは、1972年2月21日である。、毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機とした。これには布石があり、前年の1971年7月15日に、それまで大統領特別補佐官キッシンジャーが極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、大統領自身が中国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれた。キッシンジャーは周恩来と会談、米中関係の改善、ニクソンの訪中を打診し、同意を取り付けていたのだった。
この時期ニクソンはベトナム戦争終結を模索し、当時はベトナムを支援していた中国に接近して和平の道を探ること、また中国と対立しているソ連を牽制することができる、と考えた。また、キッシンジャーの新しい勢力均衡論、つまり米ソの二極対立の時代は終わりソ連・欧州・日本・中国・アメリカの五大勢力が相互に均衡を保つことによって世界の安定を図るという考えを採用したものであった。ニクソンは予定通り、1972年2月21日、訪中を実現、アメリカ大統領として初めて中国首脳の毛沢東と握手をし、20年間にわたる敵視政策を転換させることを約し、両者は米中共同宣言(上海コミュニケ)を発表した。
だが、それはあくまでも共同宣言であり、国交の正常化ではない。ニクソン訪中で相互の存在を承認しあったアメリカと中国は、その後もずっと交渉を重ね、1979年にカーター大統領と鄧小平政権のもとで、米中国交正常化を実現させる。7年も時間がかかったのである。日本はニクソン訪中後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中華人民共和国と国交を結んでしまったのは日本の戦後政治史において例外的なことではあり、ニクソンの怒りに油を注ぐこととなった。
なにせニクソン訪中の事前発表は前年の1971年7月15日であったが、日本に通知されたのはわずか数十分前にすぎず、その決定は日本を頭越しに飛び越え、米中だけで行われたのだ。日本政府(佐藤栄作内閣)は仰天した。日本は吉田茂以来アメリカと強固な同盟関係(上下関係)にあるし、つい数ヶ月前はニクソン=佐藤栄作会談で、両国の緊密な連携を約束していたからだ。当時日本の状況は中国共産党政権を承認し、台湾を切り捨てることは考えられず、特に与党自民党の中には親台湾派が多数存在していた。なによりもアメリカがこのような重大な外交方針の転換を同盟国日本に相談なしに実行するとは考えられないことだった。
しかしアメリカのニクソン=キッシンジャー外交はそのような甘いものではなかった。事前に日本の了解を得ることは困難と考え、極秘裏に事を進め、ニクソン訪中のマスコミ発表の数十分前に電話で日本の外務省に知らせただけであった。その背景には、当時並行して進められていた日米繊維交渉で、日本側の態度が煮え切らず、アメリカ側がイライラしていたこと、そもそもキッシンジャーは日本嫌いであったことなどがあり、アメリカは外交を冷徹な戦略をもとに判断していたのに対し、日本は「信頼関係」とか「友人」といった甘い、感情的なレベルでしか捉えていなかったことに問題があった。要は「オトモダチなんだから裏切らない」という認識だ。
日本政府、外務省がニクソン訪中について事前に情報をキャッチしていなかったことは、情報収集能力、外交能力に欠けるとして、マスコミは佐藤内閣と外務省を厳しく批判した。それは佐藤内閣が7月に退陣に追い込まれる直接の引き金となった。そして総理大臣として登場したのが田中角栄だった。この国交正常化により、1973年1月11日に日本の在中日本国大使館が開設され、中華人民共和国の駐日中華人民共和国大使館は同年2月1日に設置された。また、この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へ総額3兆円を超えるODA(政府開発援助)が実施されている。天皇マネーである。
実は日中国交正常化の裏舞台には創価学会の池田大作(ソン・テチャク)が関わっていた。創価学会は1960年に池田大作が会長に就任すると戸田城聖時代の中華民国(台湾)寄りの姿勢を改め、1968年9月8日、第十一回創価学会学生部総会における講演で池田が中華人民共和国の正式承認と日中国交正常化、中国の国連加盟などを提言すると、中国の機関紙は翌日、一面トップでこれを報じるなど、日中両国で国交正常化の機運が一気に高まった。ここにはまだ大した政党ではなかった公明党に力を持たせるための池田の深謀遠慮があった。
今も公明党委員長が中国の女スパイに籠絡され続けているのには、この時からの関係があるためだ。特に政権与党になって以降、自民党を牽制しつつ、中国との友好を保つという名の中国人に有利な政策が行われている裏には創価学会・公明党と中国共産党との強い絆があるためである。実際、池田大作が1968年に「日中国交正常化提言」を行って50年の節目を迎えた 2018年9月8日、創価学会は「創価学会代表訪中団」を派遣。総団長に原田会長、団長に谷川主任副会長、全国の方面、都道府県のリーダーの代表が参加した100人を超える陣容の大型訪中団が、北京、天津、大連、上海、広州の各都市に分かれて交流を繰り広げている。
池田大作が死んでいたことも知らない創価学会員たちは「創価学会代表訪中団は、池田先生が架けた”金の橋”をさらに磨き、友好の新時代を開くためのもの」などと称したが、”金(カネ)の橋”という表現は非常に的を得ている。この頃の中国はまだ貧乏国家である。日本政府は定期的に共産党政府とのトラブルが発生するが、裏ではずっと創価学会が中国利権を確保してきたということだ。池田は1974年5月30日、中国の招聘により初訪中している。1974年12月5日の2度目の訪中で鄧小平副総理と会見。その直後、病気療養中の周恩来総理の強い意志により、周恩来と池田との会見が行われている。
その後も2007年4月12日に温家宝首相と会談、2008年5月8日にも胡錦濤国家主席と会談している。日本で初めて、中国から日本への正式な留学生を受け入れたのは1975年3月で、創価大学である。この際、池田は自ら留学生の身元保証人となっている。この時の留学生の一人は今も日本におり、平然と武器売買にも手を染めている人物である。筆者も知り合いだが、名前は出さない。
田中角栄は池田大作を嫌っていた。秘書の早坂茂三によれば「池田大作はしなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない。公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」とこき下ろしている。戦後の政治はGHQの意向により在日韓国人・朝鮮人に支配させた。そのスタートは吉田茂と岸信介であり、それを弟の佐藤栄作が引き継いだ。薩長爆に属する連中である。そこに創価学会を乗っ取って日本最大の巨大カルト宗教にまで仕立て上げたのは、アメリカの指導を受けていた池田大作(ソン・テチャク)である。よって、表立って池田大作批判をする自民党の政治家は稀だ。
自民党の政治家で表立って池田大作を批判したのは田中角栄の他には石原慎太郎と亀井静香くらいである。石原慎太郎は1999年の東京都知事選挙を直前に控えた時期に、池田大作に対する人物評価を尋ねたアンケートに「一言で表現すれば、『悪しき天才、巨大な俗物』。」と答えている。亀井静香は「俺は(自民党が下野し、公明党が初めて与党となった)細川護煕政権で、政教分離の観点から創価学会と公明党を徹底批判した。当時は池田大作が『これで大臣ポストが確保できた』と内々で発言するなど、おかしなことがまかり通っていたんだ」と語っている。
しかし、統一教会と創価学会で日本を裏から支配させるために動かしたのはアメリカである。池田が初めての”海外指導”に訪れたのはアメリカで、1960年10月のことだ。この時に池田は「モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)」の組織の体制と運営方法を仕込まれて、それを創価学会に適用させて巨大教団に仕立てていった。さらに池田は以来、27回も訪米している。また、キッシンジャーをはじめとするアメリカの識者との対談集は18点を数える。大金を寄付したハーバード大学では池田の著作がテキストとして扱われている。
石原慎太郎流にいえば田中角栄も大いなる俗物である。池田大作に通ずる臭いもある。だが、田中角栄は日本人であった。天皇マネーを自分の懐を潤すためにも使ったが、日本の地方の発展にも使った。もちろん建設利権を巨大化したことの弊害も生み出した。ここが薩長支配の官僚たちとは異なる点であり、彼ら薩長閥のエリート官僚も官僚出身のエリート政治家たちも田中角栄を嫌った。なにせ彼らが束になっても勝てなかったからだ。
NHKの取材により、佐藤栄作は任期中の日中国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていたことが明らかになっている。その後、総理の座を狙う自民党内勢力=田中角栄からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた福田赳夫を中国側関係者に引き合わせていたことも明らかになっている。総理になれなかった反主流派の福田赳夫は三木武夫に接近、田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなる。
1974年(昭和49年)10月、月刊誌『文藝春秋』が、立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し田中金脈問題を追及、首相退陣の引き金となる。もちろん裏で糸を引いていたのはキッシンジャーである。11月には日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。1976年(昭和51年)2月、遂に本丸の「ロッキード事件」が発生。アメリカ上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。全日空に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕されるに至った。
<つづく>