日本を蝕む”朱子学”の闇 その17
日本を蝕む”朱子学”の闇 その17 高麗では、11世紀 - 14世紀に、宋から伝わった技術により朝鮮南部で青磁が作られた。これを「高麗青磁」という。陶器と磁器の主な違いは、原料が「土(粘土)」か「石(陶石)」かという点だ。陶器は土由来で温かみのある厚手の仕上がり(約1,000〜1,200℃で焼成)、磁器は石由来で白く滑らかで薄く硬い仕上がり(約1,200〜1,400℃で焼成)となり、陶器は吸水性があり、磁器は吸水性がほとんどなく耐久性が高い。 「有田焼」は、佐賀県有田町周辺で製造される、日本で最初に作られた400年以上の歴史を持つ磁器である。透き通るような白磁に、藍色の「染付」や華やかな赤絵(色絵)が特徴で、耐久性も高く、日常使いから美術品まで幅広く愛されている。伊万里港から積み出された歴史から「伊万里焼」とも呼ばれるが、この有田焼の起源は、17世紀初頭、朝鮮人陶工・李参平(初代金ヶ江三兵衛)によって有田の泉山で陶石が発見されたことで磁器の製造が始まったものだ。17世紀後半にはヨーロッパへ多く輸出され、王侯貴族に愛され上、その精巧さはドイツのマイセンなどに影響を与えた。 香蘭社や柿右衛門窯、今右衛門窯、源右衛門窯などが特に有名な窯元として知られており、「日本が誇る焼き物」と言いたいところだが、出自はあくまでも朝鮮人陶工・李参平にある。「金ヶ江家文書」によれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島藩初代藩主鍋島直茂公によって佐賀の地に連れてこられた陶工の一人だった李参平は、初め鍋島藩の老中・多久家に預けら、その領内で築窯したが、思い通りの焼物が出来ず、白磁に適した陶土を探すため鍋島藩内を歩きまわり、1616年に有田の泉山にて良質の磁器鉱を発見したという。 李参平は有田の上白川・天狗谷窯に窯を築き、現在に近い窯業のシステムを確立させていった。1616年には鍋島直茂公に「磁器」を献上したことにより、有田焼の創業とされている。これらの功績を称えられ多久家が李参平の出身地、錦江島の在所から名をとり「金ヶ江三兵衛」(かながえさんべえ)と名乗らせたとある。その後「有田焼」は鍋島藩を支える産業の一つとなり、VOC(東インド会社)を通して世界へ輸出され、その名を知られるようになる。そして、有田の行末を見守りながら1655年8月11日李参平は亡くなる。重要なのははここからだ。 有田町内にある龍泉寺の過去帳には戒名が刻まれ、天狗谷古窯の近くに墓碑も創建された。このことは当時の日本ではかなり稀な事で、最上級の手厚い庇護を受けていたことが分かる。さらに有田町では李参平を「陶祖」として崇敬し、なんと彼の死の三年後である1658年には李参平を祭神とする「陶山神社」(すえやまじんじゃ)まで建てらているのだ!! この陶山神社では、李を有田の総鎮守とし、応神天皇、藩祖・鍋島直茂とともに「陶祖」李参平を祭神としているのである。これは絶対に朝鮮ではあり得ない。李氏朝鮮の太祖・李成桂と陶工の職人を一緒に祀るなどということは当時も今も絶対ないからだ。 なにせいくら優秀な陶工といえど、李氏朝鮮では社会的に厳しい差別や統制下に置かれていた職業である。朱子学に基づく身分制度の下、技術者や職人は低く見られ、陶工は良民(常民)の中でも下位に位置づけられた。特に国営の窯業所で働く工匠(職人)は「卑民階層」の扱いを受けていたのだ。それにも関わらず、日本ではたとえ朝鮮人の職人であってもその技能の高さと有田への貢献から「神」として祀ったである。そして、1917年には有田焼創業300年を記念し、陶山神社に「陶祖李参平碑」も建立され、陶器市開催に合わせ、毎年5月4日には「陶祖祭」が行われている。李参平も日本に連れてこられて良かったと思っているに違いない。「陶祖李参平碑」と「陶山神社」 画像をご覧になればお分かりかと思うが、陶山神社は鳥居も狛犬も陶磁で作られている。これは凄い。ここまで崇敬されている朝鮮人は少ないし、それだけ有田にとっては感謝すべき人物なのである。李参平は、 朝鮮の一般陶工の出身で、20代半で日本に連れてこられた人物であるため、韓国風にいえば「日本が拉致したニダ」となるが、鍋島藩では重宝されて有田焼(伊万里焼)の生みの親となり、神として祀られているのである。李参平やその他の陶工たちは、誰も自分たちを軽んじて差別する李氏朝鮮には戻りたくなかったのである!! 李参平は日本永住後に金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)の名が与えられ、70代後半まで生きたとされる。2025年時点も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。しかし、朝鮮半島では、彼や彼以上の陶工が居たとされるが名も作品、技術も一切残っておらず、百婆仙、沈当吉(沈壽官)のように日本に来れた朝鮮陶工のみ歴史に名や作品を残せているのだ。これらのことが韓国では商業や工業を軽視していた李氏朝鮮の反省点として挙げられるが、時既に遅すぎである。 なお、日本に来た前の名とされる「李参平」の名は、当時「三兵衛」を「参平」と表記した史料があること、金ヶ江家に伝わる古文書に「李氏」と記載があったことなどから、明治19年になって地元の蘭学者谷口藍田が名づけたものであり、氏を持たない(持てなかった)参平が朝鮮で暮らしていた頃の本当の姓名はわからない。李参平は朝鮮に残っていても、人並み外れた努力できっと大家になったに違いない。だが、その名が歴史に残った可能性はほとんどない。寡聞のせいでもあるが、朝鮮の陶工で名を残した人物というのは思い当たらないからだ。陶祖として祀られる「李参平」と第14代李参平氏(下) 李参平が作った華麗な彩色磁器は、欧州に売られていった。陶山神社の記録によると、1650年に145個が初めて輸出され、9年後にはオランダが5万6700個を輸入している。明清交代期の混乱を避け、中国の景徳鎮に代わって日本からの輸入に切り替えたのである。バン・ゴッホなど「印象派」(ジャパン・インプレッション)の画家たちは、日本から送られてきた陶磁器の包み紙に描かれていた浮世絵を見て影響を受け、それを絵画として描いた。つまり、李参平が日本に渡らなかったら、こうした世界史的な交流も起こらなかったのかもしれない。 2022年に「朝鮮日報」は李氏朝鮮が陶工を含むあらゆる産業を「末業」として蔑視、権力闘争に没頭していた事実を指摘している。李氏朝鮮は「李参平」という有能な人材がありながら育てられなかったのは李氏朝鮮側のせいであり、朝鮮の1陶工であった李参平を陶祖として名と作品を残して顕彰してくれている日本に、感謝する必要性を伝えている。更には、現代の大韓民国でも政治闘争に没頭しているために存在が無視されている「李参平」のような人材が埋もれている可能性を指摘、政争に明け暮れて自身の才能を評価してくれないために李参平が故郷である朝鮮半島に戻らなかったのだろうと指摘している。これは真っ当な指摘である。 有田焼の発祥については、考古学的な調査から1610年代前半から有田の西部で磁器試作・作陶が始められていることが分かっている。しかしながら、有田焼の生産とその発展には李参平をはじめとする朝鮮出身の陶工たちが大きな役割を果たしたことは間違いない。天狗谷窯で産業としての創業が始まった1616年を起点に、2016年には『日本磁器誕生・有田焼創業400周年」を記念した事業「ARITA 400 project」を開催、2016年1月22日から26日まで、パリで開催された世界最大級のインテリア&デザイン国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」に出展、北野武(映画監督)、隈研吾(建築家)、佐藤可士和(クリエイティブディレクター)、奥山清行(工業デザイナー)の4人のゲストクリエーターが特別にコラボ制作した有田焼の展示も実施している。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(「文禄・慶長の役」)の際に日本に連れてこられた朝鮮の陶工の多くは、最終的に朝鮮へ帰りたがらなかったのである。その背景には、当時の朝鮮半島における身分制度による冷遇、日本側による優遇、そして生活環境の大きな変化があったからだ。「朝鮮日報」が指摘しているように、当時の李氏朝鮮では、技術者は王侯貴族に献上する品の技術は評価される一方、社会的な身分は極めて低かった。一方、日本では、技術を持つ陶工は「専門技術者」として厚遇された上、姓を持つことを許され、苗字帯刀を認められる場合もあるなど、身分が飛躍的に向上した。 さらに戦争中の朝鮮半島は荒廃しており、経済的・食糧的な基盤も失われていた。一方で、日本で定住した場所である有田や薩摩などでは、藩から土地や住居を与えられ、安定した生活と制作環境が保障された。もちろん当時の大名たちが、藩の財政を潤わす新しい産業を興すため新しい技術を持つ陶工を自領に誘致しようと競争したことも挙げられるが、陶工にとっては、安定した環境で思う存分、焼き物作りに邁進できる場所は日本だったということが、帰りたくなくなった大きな理由だ。まぁ日本人であろうと、生活基盤が安定しない場所には住みたくないし、いい仕事をさせてくれるなら海外に移住する選択をするのも致し方ない話だ。 彼らは日本で家庭を築き、その子孫はその地で庄屋や御用焼物師になるなど、生活の基盤が完全に定着した。もちろん初期には帰国を望んで訴えを起こした者もいたが、最終的には多くの陶工が技術者としての尊厳を守れる日本に定着する道を選んだのである。技術者・職人として評価されたことで、日本に留まった朝鮮人陶工といえば、薩摩焼の沈当吉・上野焼の上野尊楷(金尊楷)・高取焼の高取八山・萩焼の李敬も同様である。そうした陶工たちの子孫は、現在もそれぞれの陶祖の教えを守って焼き物を作っている。薩摩焼。上左:12代目の職人の沈壽官の傑作の大花瓶 沈壽官(ちん じゅかん)は、薩摩焼の陶芸家の名跡である。十五代続く沈家の初代である沈当吉は、1598年の豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に、薩摩の島津義弘によって多くの朝鮮人技術者と共に薩摩に連れて来られた人物である。薩摩焼には白薩摩(白もん)と黒薩摩(黒もん)がある。江戸時代までは島津藩のために作られた豪華な白薩摩に対し、黒薩摩は庶民の暮らしの中で使われてきた器だ。ここは李氏朝鮮と異なる点だ。なにせ庶民のための器は王侯貴族のために作られたものとは違って貧相なものだったからだ。 第12代当主の沈壽官(1835年 - 1906年)は、幕末維新期の激動期を生き、廃藩後、藩の保護を失った薩摩焼の窯が次々と廃業を余儀なくされるなか、民間経営への移行に成功するなど薩摩焼生産の近代化に尽力し、また明治6年(1873年)のウィーン万博以降、数々の万国博覧会や内国勧業博覧会などに出品を重ねて高い評価を受け、海外販路の拡大に大きく貢献した。現在の15代沈壽官氏は、日本独自の透かし模様である透刻技法と彫刻像を連想させる精巧な人物や動物などの造形物の陶磁像で存在を示し、鹿児島を代表する陶磁器企業を経営している。 この方は韓国のハンギョレ新聞の取材に対して、興味深いことを騙っている。 「日本に来た私の先祖の1代目の職人(沈当吉)は陶磁器を焼いた人ではないと考えています。陶磁器も土器もどちらも作っていなかったようです。土器や陶磁器を作った人たちは姓もない賎民でした。先祖の沈当吉には姓があり、幼い頃には讃(チャン)という名前もあったそうです。400年前の朝鮮では姓を持つ人は一部だったと思います。当時鹿児島を支配していた島津一族の軍が釜山(プサン)で捕らえて連れてきた捕虜をキンカイ、つまり『金海』と呼んでいました。人の名前の代わりに釜山近郊の金海(キムヘ)の地名で呼んでいましたが、後にこれが彼らの姓になりました。私たちの先祖は初代は陶工ではなかったと私は考えています。焼き物(陶磁器)はここに来てからするようになったようです。陶工が幼名を持っているなんてありえませんから」第15代沈壽官氏と作品 15代沈壽官氏の土器や陶磁器を作った人たちは姓もない賎民だったという発言は、核心を突いてはいるものの、初代が陶工でなかったとする発言は少々驚きだ。いったいどうやって2代目以降が陶工になったのだろうか。もちろ一人で焼き物を作っていたわけではないので、集団で作ったのだろうが、もう少し綿密な事実の探査が必要だということを示唆している。 上野焼の開祖は上野尊楷(金尊楷)だが、上野焼は千利休の教えを受けた藩主・細川忠興(三斎)により、茶陶が多く 作られたことに始まる。1602年に茶人大名といわれた細川忠興(三斎)が、唐津にいた朝鮮の陶工・尊楷(そんかい)を招いて開窯させたのが上野焼の始まりとされる。続く小笠原の時代にも藩窯として栄えたが、明治の廃藩置県により衰退、窯の火は消える。しかし、1902年に郡の援助を受け熊谷家、高鶴家らによって復興。現在は、29軒の窯元が活動している。青みがかった「上野焼」の品々 「髙取焼」の起源は、戦国時代の軍師・黒田官兵衛にある。黒田孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑のうち、織田家(羽柴秀吉の重臣として)、豊臣家に重用され、筑前国福岡藩祖となる。諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、通称をとった黒田官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水(くろだ じょすい)としても広く知られる。 文禄・慶長の役の際、黒田如水とその子黒田長政は御陣所の近くに「八山」と号する名陶工の存在を知り、日本へ来ることを要請。両君の人徳に惹かれた八山は家族と共に海を渡ったとある。初代・八山は士分として帯刀を許され、御殿様に御目通り叶う半礼の身分を賜っている。これは破格の扱いであり、寺格・社格という当時としては異例の待遇で迎えらたのである。髙取焼は、慶長5年(1600)現直方市にある鷹取山の麓に永満寺窯を築かせたのが始まりである。この時八山は鷹取山に因んだ「髙取」の姓と和名「八蔵」の名前を賜り、髙取八蔵重貞と名乗ったことが髙取焼の名称の由来であり、以降、黒田藩御用窯として多くの銘品が生み出された。 400年を越える長い歴史の中で時代の影響を受けながら髙取焼は姿を変えていく。開窯当初の器は、破調の美を特徴とする織部好みによって作られ『古髙取』と呼ばれている。その後、江戸時代に徳川将軍の茶道指南役であった小堀遠州に指導を受け『綺麗さび』と表現される瀟洒で洗練された美意識を受け継いだものは『遠州髙取』と呼ばれるようになる。だからなのか、他の朝鮮人陶工たちとは作風、色味が異なる。この二つの対照的な作風をもちながら、永い歴史と伝統によって培われた髙取焼の技術は「秘伝書」として残され、今もなお直系窯である髙取家に一子相伝によって受け継がれている。「髙取焼」の祖・髙取八蔵重貞と品々 李氏朝鮮には陶芸品の技術も職人も残らなかった。逆にいえば、彼らが日本に来たからこそ、九州には様々な陶芸文化が広がったのである。その意味ではこうした品々を使う日本人も、彼らが国に帰らなかったことには感謝をすべきだと思う。技術や芸術のレベルに民族は関係ない。もちろん、デザインには思想が影響を及ぼすが、職人技は技を磨くことで培うものだからだ。とはいえ、日本もこうした陶芸文化に興味を持たない人も増えているし、職人にもなりたがらない。最大の理由は「カネ」だ。そうした価値観を日本に育んだのも朱子学である。<つづく>