旅の話が全部まとまらないうちに、

現実は次々と動いていて、

話が突然飛んでしまいますが^^;

(キャラクトロジー心理学で言うと、こういうタイプはスキゾイド)

旅の話はまた気が向いた時に(笑)

 

 

 

先日、日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「魂の医療」に参加して来ました。

ところが、帰って来てから最近になくひどい風邪を引いてしまい、

なかなか熱も下がらず、ひさ~~びさにしんどい思いをしました。

もっとも、私は日常的におかしな症状はいくつか常に抱えているのですが、

あまりに日常になっていて、気にしていても仕方がないので

それを受け入れて生活しています。

聞いたらびっくりされるかも知れませんけどねポーン

 

 

 

 

 

今回は友達にヒーリングをお願いし(荒川淳ちゃんと堀内ふみちゃん)、

その間に、シンポジウムで自分が反応してしまったことについて

検証?してみました。

日常において、イラッ、としたり、人をジャッジしたり

○○さんのせいだわ~~、と思ったりすることは

全部、実は自分の中に同じ部分があるんです。

(セルフアウェアネススキル(SAS)などを受けてみると分かります)

 

 

 

わたしが反応した部分は、実は医療のことではなく

全然別のことに対してでした。

 

ふみちゃんが誘導してくれて、

自分の過去に降りて行ってみたのですが、

最初は同じ感覚のところがなかなか出てきませんでした。

ひとつひとつたどっていって、突然分かったのです!!

 

 

 

それは、わたしがまだ若かりし頃、

初めて勤務した学校が病弱養護学校で、その頃のことです。

その学校は病院が併設されていますが、

筋ジストロフィーの子ども達と初めて出会い、共に時を過ごしたのです。

わたしの心深くに残り続けていた生徒さんは

中学生で、聡明な、別のクラスの生徒さんでした。

 

 

 

わたしがその生徒さんに感じていたのは、

何かとても不安のような絶望のような、

そんな生徒さんの感情を感じとっていたこと、

でも誰にも言えない部分があるのだと感じていたこと、

それがいつも気になっていたのでした。

 

 

 

気になりつつも、どうしても踏み込むことを許さないバリアも感じられました。

「お前らなんかに、分かりっこない」というような感じ。

これはあくまでわたしが感じていたということなんですけど。

そして、当時は、ほんとうにそうだったのです。

わたしには何もしてあげられないし、本当の気持ちを聞いてもあげられない。

 

 

 

何もないかのように、日常を送っていました。

他のクラスの生徒さんだったので、

担任の先生との会話はあったのかも知れませんし、

わたしが別の学校に移った後に、会話があったかも知れません。

それは分からないのですが、ずっとわたしの中には

その印象が残り続けていました。

 

 

 

当時は筋ジストロフィーは今より更に死に近い病気でしたし、

幼い頃は自分の病気を知らなくても、

病院に入所しているうちにだんだんと自分の病気のことを知ることになるのです。

でも、学校では殆ど、生きること死ぬことについての話をしたことがない気がします。

 

 

その後、息子が重度障害児として生まれ(生まれた時は分からなかったのですが)、

病院暮らしを長く続けているうちに、死を前にした子ども達の会話を聞いたりもしていました。

子ども達はむしろ親の心配をしていて、率直に、生きること死ぬことについて話してくれる大人にはめぐり合っていないようでした。

このことを記憶しているのも、今にして思えば、

最初の勤務校の生徒さんのことがあったからなのでしょう。

 

 

 

次の学校に移ってから偶然に、

その生徒さんのお母さんにバッタリと出会いました。

お母さんの方から声をかけてきてくださったのですが、

あれからほんの数年で生徒さんは亡くなったということでした。

お母さんの表情も忘れられません。

わたしもその事実にショックを受けたのを思い出します。

 

 

私の中では、

学校で、まるでその生徒さんの痛みに対しても

自分の痛みに対しても、なかったことのように振る舞っていたことが、

心の傷になっていたのです。

(キャラクトロジー心理学で言う「マスクセルフ」)

 

 

その時の感じたくない感情は「拒絶感」と「無力感」。

そこに入ったら(生徒さんに)拒絶されるのではないか、ということと、

何もしてあげられない自分は無力だと感じてしまうということ。

この下には幼少期の、母からの拒絶を感じるのが怖い、

困っている母に対して何もしてあげられない自分を無力だと感じるのが怖い、

という小さい自分(インナーチャイルド)がいること。

そして、マスクセルフにいる自分は

真実の自分を語ることは絶対に出来ないのです。

真実を語れないところには本当のコミュニケーションは生まれない・・

 

 

 

私は自分の亡くなった息子のことが原点だと思っていたのですが、

そうではなかったんだなぁ、、と

今まで出会ってきて、今は既に天に帰っている

たくさんの子ども達の顔を思い浮かべています。

 

 

 

ところで、私は亡き息子から

色んな合図やらを受け取っていました。

そんなアヤシゲな話も、いよいよオープンにできる時代が到来したような、

そんな感じがします。

 

 

 

魂の存続について知ることが出来たら、

子どもの死を目の前にしている親ごさんは

信じる信じないは別として、希望はもてるのです。

なにも希望のない状態ほど辛いことはないのです。

子どもの死というのは、何よりも辛い経験です。

どんなに辛いかは、もうこれは経験したことのない人には分かりようもない部分です。

私も実際に経験するまでは、こんなに辛いものなのだということは

理解できませんでした。たとえ覚悟は毎日していたとしても。

だから、今は私は少なくとも、ハートを感じつつ

話を聞いてあげ、自分の経験を話してあげ、

自分の信じるところを話してあげることが出来る。

息子亡き後、すごく時間はかかったのですが、

今、そんな自分になれていることが、嬉しいです。

出会ってくれた、天の子ども達に感謝しつつ。

 

 

 

「魂の医療」という場で自分が反応し、

体調を崩し、そしてその下にあった意味に気づくという、

これも必然の流れのような気がしています。