例年この時期、ちょっとした副業があり

大阪キタの梅田の繁華街に出向いてます

 

そこで今回から数回にわたって

「キタ」の繁華街を歩いてみた・・・を書きます

 

昨年11~12月には「ミナミ」を歩きました

 

 

今回はキタの繁華街です

上の地図の範囲くらいをキタの繁華街とします

今回は全体像と歴史を書いてみます

 

江戸期から戦前までのキタ

 

江戸時代の「大坂」の市街地は

地図の一番下の中之島~堂島が

船運が栄えていた江戸時代から

蔵屋敷が立ち並んでおり「堂島新地」さらに

「曾根崎新地」が遊里としてできたそうです

 

さらに中之島からミナミの道頓堀辺りまで

は商いの街として栄えてましたが

今の北新地はその北端だったみたいです

 

 

現在の梅田エリアの大半は寒村というか

梅田は湿地帯で埋め立てたから

「埋田」だったらしいし

大坂の片田舎だったとのことびっくり

 

それが・・・

1874年に国鉄(官営鉄道)大阪駅ができ

1906年に阪神・1910年に阪急の梅田駅

1933年には地下鉄が開通して

交通の要衝になり繁華街が形成され

特に阪急阪神の百貨店中心に栄えました

戦前には百貨店の周辺にも繁華街が広がりました

 

70年代は大阪駅前ビルと阪急村

空襲で大きな被害を被ったキタの繁華街

戦後長く大阪駅の南側に闇市が並んでたのを

70年万博を機に再開発が進みました

阪急は沿線に万博会場ができたし

地下鉄御堂筋線からも会場に直通できたし

地下鉄谷町線や四つ橋線も開通し

大阪駅前ビルや阪急梅田駅の移築などで

一気に梅田の規模がでっかくなりました

 

80年代には大阪駅直結で大丸ができ

阪急はたくさんのファッションビルを建てました

阪急村と呼ばれる各種ビルやホテル

が梅田の北東部を占めています

 

90年代は茶屋町・2000年代は西梅田

 

90年代は阪急梅田の北東エリアの古い街だった

茶屋町がぐいぐいきました

毎日放送MBSの社屋が千里から移転してきて

梅田芸術劇場(旧梅田コマ劇場が移転)

や梅田ロフトなどができて

一種の茶屋町ムーブメントができたころ

 

阪神梅田駅から西側のエリアの再開発も

90年代末から進みました

ハービスやハービスエントなど

落ち着いた大人の雰囲気のエリアになりました

 

 

2010年代はJR大阪駅

 

私鉄の方が勢いのある大阪で

国鉄時代の大阪駅は地味でした

JRになって少ししてから攻めてきました

大阪駅を大規模改修して大屋根を取り付け

ホームを移設してまでルクアなどを開業

国鉄の大阪鉄道管理局だった駅の北側を

ヨドバシカメラやグランフロントにして

 

さらには梅田貨物駅だった用地を

駅の機能を移設させて広大な空き地を創出

貨物線は地下化して旅客駅の

「大阪駅地下ホーム」を昨年開業

広大な空き地は

「うめきた」と称してビルを建て

公園を造成中というその途上です

 

 

こんな感じで「キタ」の繁華街は

再開発やらでいろんなエリアが

「グイグイくる時期」を順番に迎えています

 

逆に言えば

個性的な個人商店が多いミナミよりも

大資本による開発を繰り返すキタの

梅田一極集中

梅田一強状態

になりつつあるようにも感じます



これが「大阪は元気になったキラキラ」という

一部の現象が大阪全体のように印象操作され

さらにはイシンの成果のように語られ

(マスコミも「キタ」周辺に立地しますし)

 

(画像はお借りしました)

大阪都構想住民投票では

市内でも「キタ」半分の区が賛成が多い

という遠因になった気もします

そのくせウラで握って与党をアシストする

狂った政党ババ幅をきかせる街になったのも

キタの再開発が理由の一つかと思うと複雑です


キタ以外含めた大阪府はダメでも

キタが成長していたら「大阪スゲー」に見えるんですわニヤニヤ

 

 

まあ、大阪でも衰退傾向の

泉州住みの式守ですので

若干のやっかみもあるとは思います

 

それも踏まえて、先入観込みで

「キタ」を歩いてみた・・・

次回から開発の古い順に行ってみますあしあとあしあと