こんばんは。式守です
今日のお話は「40代式守伊之助さん」を改めて振り返るという企画です(そんな大げさな?)
この1月に「若手行司へのセクハラ」という前代未聞の理由で出場停止~辞表提出に追い込まれた伊之助さん
まったくもって弁護の余地もないのですが、今日の番付発表を受けて、伊之助さんの抜けた場所は5場所目、番付から消えて2場所目になり、慣れたといえば慣れたものの、やはり未だにしっくりこないのです。私は
いなくなって、あらためて気づく
40代伊之助は
近年まれにみる名行司だったと
だったからこそ、なんであんなことに・・・(ブツブツ)
少し振り返ります
![音符](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/086.png)
さらには力士の同期は、大関若嶋津関、大関霧島関など…細身でイケメン力士が多いですな
出世が早かったのは「運」もありましたが、見合うだけの実力もあったと思います
式守吉之輔から木村吉之輔、当時の宮城野親方の現役時代が吉葉山潤之輔だったので、ちなんで名づけられたと思われます
幕内格時代の式守錦太夫襲名には驚きました。一門の先輩や師匠の名ではなかったからです。それだけ期待もあったとのこと
なにせ、
動きがいい、
軍配の上げる高さがいい、
そして軍配を挙げるのが素早い、
さらには声もいい
もつれた勝負ほど自信満々に高く上げるようにしていると話されていました。ついつい迷って自信なさそうに小さく上げる行司も多い中で、伊之助さんは潔く早いのです
2013年11月に40代式守伊之助襲名。私は入院中の病床から見ていました。鼻や腹から挿管された身体だったので、おおげさでなく「生きててよかったあ」と思いました
ただ、先輩行司の正直さんの死去や玉光さんの病気辞退もあっての、早い昇格だったので、素直に喜ぶことがためらわれるのも事実でした
プレッシャーもあったのでしょうか、差違いを連発した時期もありました
(2015/11/15)
でも、そんな時も、その後も、伊之助さんの軍配に迷いは感じられませんでした
声や動きではもっとうまい行司もいると思いますが、私は「軍配の上げ方とタイミングの良さ」では、この伊之助さんは歴代屈指だと思います。
誰が見てもわかる勝負は特段普通に素早くもなく軍配を挙げるのですが、
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20180819/14/niimuu-26/0c/c2/j/o1080060714250450379.jpg?caw=800)
地元岸和田市の誇りでもありました
私たち夫婦で行った昨年秋の岸和田巡業の際にもパネル展示がされていました
協会のTwitterにはこのパネル前でご本人が映っておられるのもありました
特定健診の広報のために岸和田市国民健康保険課のポスターにも登場していました
岸和田市長を表敬訪問した記事もいまだに岸和田市ホームページには残っています
市長と伊之助さん。市長は昨年辞職に追い込まれ、伊之助さんも同じく…残念
岸和田市と言えば、清原和博氏も残念な去り際になりました
辛坊治郎氏もあんなんやし…
コシノ三姉妹くらいかなまともな出身有名人って
ただ、だからもったいなかったんですよ伊之助さん
停年までまだ6年以上残して、期待していた木村庄之助になることもなく土俵を突然去った喪失感は言いようがないです
いくら仕事ができても、ハラスメントは身を亡ぼすと、教えてくれたと思うしかない…と自分に言い聞かせ、今日も上司としての身の処し方に気をつける式守にゃん太夫でした