クルパパさん家のクルス君が亡くなった。
どんなペットでも何年も一緒に過ごせばそれはもう家族。
オイラも昔は飼っていた。
母子家庭の一人っ子という環境で育ったオイラの寂しさを埋めてくれる存在だった。
犬や猫が飼える環境じゃなかったからセキセイインコを飼っていた。
セキセイインコの平均的な寿命は7~8年らしいから当然先に旅立ってしまう。
別れはあまりにも辛い。
それ以来ペットというものを飼うのをやめた。
犬の平均寿命が種類にもよるけど10~15年ぐらい。
猫の平均寿命も10~15年ぐらい。
ほとんどの場合見送る側になっちゃう。
ちょっと飼うのが面倒になったり、飼えない環境になると捨ててしまうような世の中で、最後までパパに愛されたクルス君は幸せだったろう。
パパがクルス君に感謝する気持ちと同じくらいクルス君も感謝してるんだろう。
今は天国の野原で目一杯駆け回ってパパを見守ってると思う。
クルス君のご冥福をお祈りします。
クルス君が旅立った数日後松田直樹が旅立ってしまった。
急性心筋梗塞・・・
オイラは3年前に脳梗塞で入院した。
去年は母親が脳梗塞で入院した。
血栓が脳で詰まるか心臓で詰まるかだけの違い。
しかもまだ34歳という若さで現役のプロスポーツプレイヤーなのに・・・
無念だろうなと思う。
松田直樹選手のご冥福をお祈り致します。
こんなときにある人物の遺言を思い出す。
吉田松陰の塾生達に向けて書かれた遺書「留魂録」で書かれている死生観。
塾生達だけじゃなく現代に生きる我々にも強く訴えかけてくる。
<原文>
一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ
一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
古川薫著「吉田松陰 留魂録」より
![$ランド爺の競伝老後日記です! 誰が老後やねん\(`o'") こら-っ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110807/02/niigataland/af/c3/j/o0491037811399829008.jpg?caw=800)
20数年前に飼っていたインコが旅立ってしまったときに出会った本で、悲しみの最中にはなかなか慰めにはならなかったけど、少し落ち着いてから読み返したら心の中にすっと入ってきたものです。
クルス君も松田直樹もそれぞれに四季が備わっていたんだと思います。
単なる籾殻か成熟した実なのかは残された者たち次第なのではないでしょうか。
誰もが大切な人と永遠の別れを経験することは避けられないでしょう。
残された我々が成熟した実を種とし、毎年毎年花を咲かせ実らせる、それが残された我々の旅立った人(家族の一員であるペットも)への恩返しになるのでしょう。
吉田松陰の場合は残された高杉晋作、久坂玄端、入江九一、吉田栄太郎らをはじめとする門下生達が倒幕~維新に原動力となって松陰の残した実を成熟した実としました。
パパ、そしてパパの奥さんが、クルス君の残した実を成熟した実とし、立派は花を咲かせ、また実りを迎え、大きな収穫ができるように祈ってます。
松田直樹選手の家族の方々、友人、そしてサポーターの方達にも同様に祈っています。
合掌。