日本史エンターテイメント

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小学校の頃より歴史が大好きで、史跡・博物館めぐり、歴史研究・歴史本の読書は当時からずっと続いております(笑)。現在は都内の音楽高校の高2ですが、日本史が大好きであります。もちろん音楽も!!

ちなみに音高では声楽を専攻しています。元々合唱団に所属していました。


管理人の徒然なる日常、そして歴史話←(これメイン)をつらつらと綴ってまいります。

未熟な内容で恐縮ではございますが、お散歩のように楽しんでいただけたら幸いです。

テーマが時代別に分かれております。

各時代へジャンプすることが可能です。

若輩者ではございますが、よろしくお願いいたします。


歴史観をめぐるコメントも是非お願いします。私自身も歴史観の違う方の意見が聞きたいです

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越後屋は本当に極悪商人なのか!?

>「越後屋、おぬしもワルよのう。」「いえいえ、お代官様ほどではございません。」
「ガーハッハッハ」「イーヒッヒッヒ


はい、悪巧みからスタートしてまいりました。異様な雰囲気の今日の記事でございます。

それにしても、これほど有名な悪巧みシーンもないでしょう。時代劇にあまり馴染みのない人でもこのやり取りは知っているのではないでしょうか?
まあ、実際に時代劇を見ていると、別の屋号の悪徳商人も登場するんですが、やっぱりよく知られているのは「越後屋」ですよね。

では、ここでハテナポイント!

越後屋というのは、それほど極悪な商人だったのか?


■実はたくさんあった越後屋

これほど、悪役として浸透した越後屋ですから、相当筋金入りだろうと思うかもしれませんが、結論から言うと、別にそういうわけではないんですね。

そもそも「越後屋」という屋号の商店は実はたくさんあったのです。ですから、時代劇に登場する極悪商人「越後屋」は別に特定の一店をモデルにしているというわけではないようです。

では、なんで「越後屋」がそんなにたくさんあったのか、ということになるわけですが、これは、当時の屋号の決め方からそうなったと言えそうです。

当時は、屋号を決めるとき、出身地の国名をつけることが多かったそうですが、越後はことに江戸に出稼ぎに行く人が多い国だったのです。
それというのも、越後は冬場は雪深い地。冬になれば農作業もままなりません。となれば、生活が苦しい人ほど、出稼ぎに行くしかないわけです。

というわけで、江戸に出稼ぎに来た越後出身者たちが、やがて店を持つことになったので、みんな「出身国だから」と言って、「越後屋」を屋号としたんだそうです。だから、「越後屋」は商家の屋号の代表格なんですね。


よって、「越後屋」だから悪徳商人というわけではないようです。まあ時代劇はそもそもがフィクションなんですが、悪徳商人のイメージが定着してしまっている越後屋さんはちょっと気の毒ですね。

古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味! 今日の歴史

天正十年(1582年)6月11日午後、尼崎に到着した羽柴秀吉の陣に、中川清秀と高山右近が合流しました。

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例の明智光秀の謀反・本能寺の変で織田信長が倒れたの後の羽柴(豊臣)秀吉の中国大返し・・・この時の、諸将の動きについては、すでにいくつか書かせていただいておりますが、同時進行でイロイロと動きまわられるので、とりあえず、流れをまとめてみますと・・・

2日 早朝 光秀 本能寺で信長を襲撃の後、二条御所の信忠を襲撃
午後 光秀 安土に向かうが瀬田橋が落とされていたため、断念して坂本城へ入る
夜 家康 飯盛山(四条畷市)で本能寺の変を知り、交野にて一夜を明かす(伝承)
3日 光秀 佐和山城・長浜城など近江各地の城を平定しながら諸将に手紙を書く
勝家 魚津城を落す
家康 津田・穂谷を抜け宇治へと向かい宇治田原で宿泊
夜 秀吉 本能寺の変を知る
4日 秀吉 備中高松城を攻略
勝家 本能寺の変を知る
家康 信楽に到着
5日 家康 伊賀越え中
6日 夕刻 秀吉 毛利の撤退を確認し京へ発つ
夜 秀吉 亀山城へ到着
家康 白子浦から乗船し海路、岡崎へ
7日 光秀 安土城の光秀のもとに朝廷からの使いが来る
秀吉 80kmを移動し姫路城へ到着
家康 岡崎へ到着
8日 秀吉 姫路城で軍を休息させる
9日 秀吉 姫路を発つ
10日 光秀 秀吉がまもなく尼崎へ到着の知らせを聞き京を発つ
秀吉 移動中
11日 秀吉 尼崎へ到着

・・・で、天正十年(1582年)6月11日、上記の通り、秀吉は尼崎に到着し、一方の光秀は洞ヶ峠に陣を置く(2007年6月11日参照>>)という事になります。

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そして、ちょうど、この頃の事でしょうか・・・有名な『太閤記』には、京都から移動中の光秀のもとに、「チマキ」を献上に行った農民たちの話が出てきます。

「戦いに勝てますように」との祈りを込めて、農民たちが持ってきたチマキを受け取った光秀は・・・

「おぉ、みんなよぉ聞け!
主君に悪行があった時は、その主君を殺すのは、この国だけやない。
中国でも、昔、悪名高い主君を倒し、民衆を救って周王朝を開き、860年もの長きに渡って平安をもたらした者がおるんや。
俺も、京都の町に平和をもたらしたんゾ~!」

と、声高らかに宣言しますが、なんと、そのチマキの包みを開けずに、そのままパクリ!

見た目は平静を装っていても、内心はドキドキ・・・心の動揺を隠しきれなかった光秀の様子を見た農民たちは・・・

「大将がアレでは、明智は負けやなぁ。
こんな軍のところにいててもしゃぁない・・・行こ、行こ」
と、さっさと立ち去ったのたとか・・・

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・・・と、長い長い前置きをしていましたが(前置きやったんかい!)、今日、お話したいのは、これら一つ一つのストーリーではありません。

上記の逸話の中の農民のセリフをお聞きになって、どう、思われました?

どう考えても、この先の合戦の勝敗を知っている人のセリフですよね。

確かに、この時、すでに秀吉のところには、続々と助っ人が駆けつけ、光秀のところには地元のわずかな味方しか来ていないわけですから、その事を踏まえれば、ある程度、この後の山崎の合戦の予想が付けられるかも知れませんが、それこそ、ヘリでも飛ばして、秀吉の陣から光秀の陣までを駆け巡り、両方の様子をほぼ同時刻にでも観察しなければ、そんな事は不可能ですよね。

つまり、この逸話は、この後の歴史を知っている人が、後世に付け加えた可能性が高い・・・もちろん、すべてがウソだとは言いませんが、少なくとも、最後の農民の勝敗予想は、結果ありきの発言のように思います。

実は、この『太閤記』には、この後、織田家家臣内のトップ争いの場となる賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)のお話も出てくるのですが、そこでは、勝家の敗因として「柴田勝家の撤退命令も聞かず、先走りすぎた佐久間盛政が無謀の攻撃を仕掛けたのが敗因である」てな感じの事が書かれています。

そのため、今、現在でも盛政は愚将扱いされ、さらに、部下をちゃんと管理できなかった勝家の評価までもが低いのが現状です。

しかし、以前、【前田利家の戦線離脱】(四月22日参照>>)のところでも書かせていただきましたように、私自身は、賤ヶ岳での勝家の敗因は、中国大返し並みのスピードで秀吉が美濃から戻ってきた事と、その利家の戦線離脱にあると思っています。

特に、利家の戦線離脱によって柴田軍の足並みが乱れ、形を整えたままの撤退が出来なくなった事が大きいように思います。

しかし、『太閤記』には、そうとは書いてない・・・

実は、この『太閤記』を書いた人・・・小瀬甫庵(おぜほあん)という人なのですが、この人は、この『太閤記』を書いた時は、前田家に籍を置いていた人なのです。

そうなんです。
出版社なんてない昔は、不特定多数の読者を対象にして本を書く・・・なんて事はないわけで、大抵は、この甫庵さんのように、どこかの大名に仕えて、その大名をスポンサーとして書くわけです。

たとえば、昔の画家の場合も、自分で好きなものを好きなように描いて、その絵が高く売れてプロとして生計を立てられるなんてのは、ごく一部の有名な画家さんだけで、それができない場合は、好きな絵を描きつつも、貴族やお金持ちの注文を受けて、その肖像画を描いたりして報酬を得るわけです。

当然、そういう場合は、相手をメッチャ男前、あるいは美人に描かなくては、高くは買ってもらえないわけで、実際よりは、数段、美しく描く事になります。

つまり、このような書物にも、そういう脚色がしてあるのでは?・・・いや、おそらくしているものと思って見てよいと思います。

確かに、利家は、勝家の家臣ではなく、織田家の家臣・・・ともに織田家の家臣である秀吉の味方をしようが、勝家の味方をしようが自由なわけですが、最初っから秀吉に味方していたならともかく、戦場に出てからの、いきなりの撤退は、なんとなく、ルール違反の臭いがします。

裏切り・寝返りとまではいかないまでも、やっぱり、コスイというかズルイというか・・・そんな印象が拭えません。

だから、利家の撤退の事はサラッと書いて、「敗因は盛政と、それを止められなかった勝家」という事にしておかなくてはならないのです。

そして、もちろん『太閤記』ですから、そのご主人様である利家が味方した秀吉も、強くかっこよく書かなければ・・・そうなると、自然と、敵である光秀をかっこ悪く書かなくてはならないわけです。

これらの歴史的文書というものは、この『太閤記』に限らず、そして、この時代に限らず、たとえ、一級の史料と称されるものでも、その時代背景と、書いた人物の立場というものを踏まえながら、読み解いていく事が重要なのです。

たとえば、冒頭に書いた本能寺の変の後の7日の出来事・・・安土城にいた光秀のもとに朝廷からの使者がやってきています。

この事は、その使者であった吉田兼見(かねみ)の日記に書かれているのですが、「訪問して談笑した」という事以外は、すべて削除されているのです。

おそらくは、そこには本能寺の変が謀反ではなく革命の類であるとか、光秀を新たなトップとして認めようかといったような内容が書かれていたからこそ排除しなければならなかったのではないでしょうか。

このように、日記でさえ、後世に力を持った人間によって書き換えられるのですから、古文書というものも、やはり・・・。

以前、【信長とキリスト教】(4月8日参照>>)でご紹介したフロイスの見た信長・・・果たして本当に信長は神になろうとしていたのか?

また、【比叡山焼き討ちは無かった?】(5月12日参照>>)で書かせていただいたように、信長の魔王のような殺戮は、敵である延暦寺の僧が流した噂を書いただけではないのか?

かと言って「そんなんだったら、何も信用できない!」・・・というのではありません。

必ず、その中には真実もあります。

書いた人物の立場から、時代の背景から、何が本当で、何が違うのか?を読み解く・・・

特に、敗戦後、その地位も名誉も失くしてしまった、信長、光秀・勝家などに関しては、注意深くその真意を探っていきたい!

それこそが、歴史を楽しむ醍醐味のような気がします。
 

6月10日時の記念日!!

ご存知、今日、6月10日は『時の記念日』です。

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すでに、2006年の6月10日に書かせていただいたように、『日本書紀』の天智十年(671年)の四月二十五日のところに、「漏刻(ろうこく・洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」と書かれてあり、この日づけを太陽暦に換算すると6月10日になる・・・というところから、大正九年(1920年)に「時間を守り、欧米のように生活の改善・合理化を図ろう」と制定されたのが『時の記念日』です

上記の漏刻というのは、天智天皇が皇太子時代の斉明六年(660年)に造ったとされる「水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステム」の事ですが(くわしくはHPで>>)、長年、日本書紀の記述のみで、どのような物なのかが謎だったところ、昭和五十一年(1981年)に、奈良県明日香村での水落遺跡の発掘によって、その詳細が明らかになったものです。

・・・て事で、本日は意外に時間に縛られていた奈良時代・平城京の勤め人のお話・・・。

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上記のように、天智天皇が、明確に時を知らせるシステムを作っちゃったもんだから、その時から、宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになりました。

特に、平城京へと都が遷ってからは、陰陽寮(おんみょうりょう)という専門職の人が、キッチリと時間を計ってキッチリを鐘を打つし、さぞかし慌てさせられた事でしょう。

以前、【昔の人口は?】(1月29日参照>>)のところで書かせていただいたように、この時代の平城京の総人口は約20万人足らず・・・そのうち、朝廷へ出仕する役人は、1割に満たないくらい(あくまで予想です)・・・。

その中でも、上級の役人は、都に永住していましたが、下級役人の多くは地方に本籍を置いたまま、言わば単身赴任の形で、年2回の特別休暇の時は、地元に帰って農業の手伝いなどしなければならず、けっこう大変だったようです。

もちろん、以前【今も昔も役人天国】(8月3日参照>>)でも書かせていただいたように、その給料も、上級と下級では雲泥の差があり、役人と言えど下級の人は、お気の毒なくらいの状況でした。

例の漏刻のおかげで、現代で言うところのタイムカード制が導入されていたという事ですので、おそらく、時間に関しても・・・

それこそ、上級なら、重役出勤も当たり前なんでしょうが、下級だと、そうはいきません。

朝は、午前6時半に内裏朝堂の大門が開き、即、文書作成や書類への捺印などの作業に取り掛からねばなりません。

ただし、正午には、その漏刻での太鼓の音が鳴り響いて終業となります。

つまり、仕事は午前中だけ・・・ただし、これは基本的に・・・というのがついてまして、やっぱり、ここでも、下級の役人たちは、けっこう遅くまで残業なけらばならない状況だったようです。(←サービス残業、ハンタ~イ!)

中には、残業しても正規の給料だけではやっていけず、さらに夜遅くまで写経のバイトをして、日々の生活の足しにしながら、土間にムシロ一枚というわびしい居室に、ごくわずかの日用品を置いただけの場所で、毎日泥のように眠っては、翌日出勤する・・・といった人も多かったようです。

当然ですが、有給休暇はありませんので、いくら疲れていると言っても、欠勤すれは、即、給料に響いてきますから、彼らは、仕事を休むにも、事前の「欠勤届」なるものが必要だったようです。

あの正倉院には、そんな彼らの「欠勤届」も残ってます。

まずは、2行くらいで、その休む理由を書くのですが、多いのは、やはり「身内の不幸」や「法事」・・・(今も変らん)

さらに、「家屋の修理」や「盗難に遭った」・・・中には「衣類の洗濯」って、いかにも単身赴任っぽいのもありますが、そんな欠勤理由の後に、「仍具事状(よってことのじょうぐす)謹解」としるし、最後に、その日づけを書いて提出します。

正倉院の文書には、その後に書き込まれたと思われる「○月○日参」という、新たな日づけ・・・つまり、ちゃんと休んだ後に、予定通り出勤したかどうかが書かれていて、やはり、予定以上の欠勤が、後日の給料の支給に影響している事がわかります。

そんな、下級役人の、数少ない息抜きと言えば・・・お昼頃から日没まで開かれていた東西2ヶ所の「市」。

西市は右京八条二坊・・・現在の薬師寺のちょい南あたりですね。
東市は左京八条三坊・・・大安寺の少し南あたりかな?
(平城京は東西に10本の条・南北に9本の坊という大路で区切られていました・・・2月15日参照>>)

そこには、決まった店舗を持つ商人だけではなく、行商人も多くやって来て、食料品はもちろん、薬や牛馬まで売られていて、たいそう賑やかだったのだとか・・・

 

テンポの効いた客引きや、行商人のここち良い売り声・・・
時には、唐渡りの高級な絹で目の保養をしつつ、巧みな大道芸を楽しみ、夕暮れ迫る都の空の下、ちょいとだけお酒を飲みながら・・・

今も、ガード下の赤ちょうちんに集うサラリーマンのように、彼らも、帰りの時間を気にしながら、明日の日本を語ったのでしょうか・・・

何となく、彼らを身近に感じます。

日本史エンターテイメント-音樹の記念日

小御所会議!!!

明治政府が発足して初めての会議が京都御所の小御所でおこなわれた
この会議のテーマはずばりあの人
そう!徳川慶喜である
この会議は慶喜をどうするか・・・かなりの激論が繰り広げられたのであった


日本史エンターテイメント-小御所


小御所

慶応3年12月9日夜・・・
天皇・総裁・議定・参与が京都御所の小御所に集まった・・・
一番上には、御簾・・・明治天皇である
二段目には総裁・有栖川宮熾仁親王、議定・仁和寺宮嘉彰親王
その下には議定・参与が並んでいた

日本史エンターテイメント-ヤマうち用同

初、公家側が徳川慶喜の処遇をどうしたらよいかと示すと

山内容堂が『なぜ慶喜を出席させないのか』との疑問をだした
これが激論のきっかけとなったのです

これには続きがあって

容堂『・・・数人の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけだ』
この言葉に岩倉具視が噛み付いた

岩倉『天皇は不出世の英主である、それを幼いとは失言である!』と・・・
これにより容堂はあやまるしかなく、その後あまり口を開かなかったそうである

また、大久保利通の意見は
慶喜が辞官納地に応じさせるのが先決、そうでなければ免官削地をして罪を公に見せしめる
というもので
これに、口を開けない藩主にかわり、土佐藩士後藤象二郎が
後藤『公明正大な処置をとるべきだ、やはりこの会議は陰険だ』と容堂を支持した
これに徳川慶勝・松平春嶽も賛同し

一時は慶喜を擁護する方向に会議が進んでいった
中山忠能は、この場を納めようと正親町三条実愛と協議したところ
岩倉に『天皇の御前で私語するとは何事だ!』と叱られ、この会議は一時休憩となりました

さて事が大きく進んだのはこの休憩時間で
岩倉は西郷隆盛などの薩摩藩士に意見を求めました
そこで西郷がこんなことを言った・・・
『短刀1つあれば済む話です』と

この発言で覚悟を決めた岩倉は、浅野茂勲にこの覚悟を伝え

小刀を懐に隠し会議に戻ることとなりました
このことは後藤象二郎を通して山内容堂へと伝わり
容堂や慶勝、春嶽もその後は無駄な抵抗が出来ず
岩倉らの決議に従わされる形となりました・・・

こうして夜中まで続いた小御所での会議は
徳川慶喜に『辞官・納地』を命じることが決議され
官位を辞任し、領地を返還させることになり
縁戚の徳川慶勝と松平春嶽で二条城に行き
徳川慶喜に辞官・納地をすることを伝え、自発的にこれを行うことが決定された

ちょっと一言

よくある会話
Bさん   「僕(私)、歴史好きなんだよね」


Aさん   「そうなんだ」



Bさん   「そう。それで真田幸村とか徳川家康、伊達政宗も。そうそう直江も」



Aさん   「他には?」


Bさん   「あとは幕末。勝海舟とか。でもなんといっても竜馬♪」



戦国幕末が好きな「歴史オタク」や「歴女」・・・

でも戦国と幕末足しても50年になるかどうか。


あなたたちは本当に歴史がすきなの?  古代史とか平安京はいやなの?

日本2000年の歴史で始めて日本史。甘い!!!!!

強烈なコメント待ってます!!!!