篠田儀三郎は会津藩供番篠田兵庫の次男。
母しん子は織部玄孝女、従兄田中土佐玄清(会津九家の一)の養女となり、篠田家に嫁にいった。
儀三郎は郭内米代二之丁に生まれ、その人となりは至って正直で約束を違えたことはなかった。
六、七歳のころ友達と日を決めて蛍狩の約束をした。
ところがその当日は日暮前から大風雨となり、あいにく蛍狩には思わしくない日となった。
しかるに、儀三郎は蛍籠を提げて友達のもとに行った。
友達は驚いて「このような雨天に蛍が飛んでいる筈もない、なんで態々(わざわざ)やって来たのか」と言った。
すると儀三郎は、君と一旦約束したからその約束を守って来ただけであると言って、その約束を解いて帰っていった。
またあるときは、友達の家で寄り合う約束をした。
ところがその日に至って、雹(ひょ
う)が降りしきり、寒さもことのほか烈しかったので、友達は今日は誰も来ないであろうと思って悠々と構えていた。
するとそこに、儀三郎は足駄を手にし従跣(はだし)のままやって来たので、友達は大層愕き、かつ謝し、その後篠田の正直といえば誰も知らないものはなくなったという。
十一歳にして藩校日新館に入り、尚書塾一番組に編入されてしばしば賞賜を受けた。
慶応四年(1868年)、戊辰の役が起きるや白虎士中二番隊に編入され、その嚮導(副隊長)に任ぜられた。
戸ノ口原に出陣し西軍を迎撃するが、隊長の日向内記は途中食糧調達のため隊を離れ行方不明となり、嚮導の儀三郎は代わって指揮をとった。
西軍の猛攻に退却を余儀なくされ、飯盛山までたどりついた隊士たち21人は、炎上する城下を見て落城と思い込み自刃を決意する。
飯沼貞吉が母から与えられた短冊を読み上げると、儀三郎もまた文天祥の詩を吟じた。
石田和助が最後の章を誦和し「手疵苦しければお先に御免」とばかりに刀を腹に突き立て見事に自刃すると、儀三郎もわれ遅れずとばかりに咽喉を突いてその後を追った。
享年数え17歳。
法名を賢忠院軍誉英信居士という。









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白虎隊士像(福島県会津若松市)