今日 7月25日はどんな日でしょうか。
受験日本史に関わる出来事をチラ見してみましょう。
まぐまぐを使ってメルマガでも配信を始めました。
→ http://www.mag2.com/m/0001599854.html
1.誕生日おめでとう篇
1562年:安土桃山~江戸時代初期の武将・大名、加藤清正(かとうきよまさ)。(グレゴリオ暦)
wikiに上げられている画像へのリンクです。→加藤清正
加藤清正は幼少より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いや朝鮮出兵での活躍をはじめ多くの戦功を上げました。
1585(天正13)年には主計頭(かずえのかみ)に任ぜられ、1588(天正16)年には肥後国の北側半国を与えられ、熊本城を居城としました。
秀吉の死後は、徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)で参戦し、その結果肥後一国52万石を与えられ、熊本藩主となりました。
その加藤清正が生まれたのが1562(永禄 5)年の今日のことでした。
2.お悔やみ篇
731年:奈良時代初期の貴族・歌人、大伴旅人(おおとものたびと)。満66(65かも)歳没。(旧暦)
wikiに上げられている画像へのリンクです。→大伴旅人
720(養老 4)年、征隼人待節大将軍に任ぜられましたが、同年藤原不比等(ふじわらのふひと)が亡くなり、京に呼び戻されます。それ以降朝廷の重臣として文武官を歴任します。
晩年、太宰師として赴任し、九州の歌壇の中心的存在となり、任期満了で730(天平 2)帰京した後、翌731(天平 3)年の今日、亡くなっています。
「万葉集」「懐風藻」に心情豊かな作品を残し、また中国の思想・文芸にも心を寄せていました。
3.出来事篇
今回、ご紹介するのは、
1629年 7月25日:紫衣事件で、沢庵(たくあん)和尚が出羽国に流されました。(旧暦)
いう出来事です。
この出来事に先立って2年前の1627(寛永 4)年、江戸幕府は大徳寺・妙心寺の入院・出世が「勅許紫衣之法度」や「禁中並公家諸法度」に反して、みだりになっているとして、それらの寺の五山僧への紫衣着用の勅許を停止して、再吟味するとしました。紫衣とは高徳の僧尼がつける法衣・袈裟のことで、その認可は天皇の権限でした。
1629(寛永 6)年の今日、大徳寺の沢庵・玉室(ぎょくしつ)・江月(こうげつ)、妙心寺の東源(とうげん)・単伝(たんでん)らは出羽上山など東北各地に配流になりました。さらに、1615(元和元)年以来幕府の許可無く勅許された紫衣を剥奪しました。
これらの一連の事件を紫衣事件といいますが、この事件の背景には、禁中並公家諸法度などの幕府法令と天皇綸旨とが抵触している状態を打開するとともに、幕府法令が上位法規であることを明確に示す必要があったのです。
後水尾天皇はこの事件で態度を硬化させて譲位し、奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇である明正天皇が誕生したのでした。
この即位にあたって、江戸幕府は朝廷と幕府とのパイプ役である武家伝奏(ぶけてんそう)の職務を果たさなかった中院通村(なかのいんみちむら)を更迭し、さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じました。家康以来推し進めてきた朝廷統制の基本的な枠組みは、この一件だ改めて確立され、幕末まで存続しました。
---------------------------------------
今日の記事はこちらです。:http://nihonshi.info/?p=866
トップページはこちらです。:http://nihonshi.info/
FaceBookの「いいね!」ボタンをポチッとお願いします。
FBページはこちらです。:http://www.facebook.com/nihonshisaijiki
---------------------------------------
【編集後記】
後水尾天皇が譲位の意思を示したのは1629(寛永 6)年 5月 7日のことでした。譲位する相手の女一宮興子内親王(徳川秀忠の娘和子が生母)がまだ、満5歳ということもあり、時期尚早であるとして幕府は放置プレイを決め込んでいました。
ところが沢庵和尚らの配流の一件もあり、半年後の同年11月 8日、後水尾天皇は幕府の同意を求めずに突然に譲位してしまったのです。これに対して江戸幕府から返答が来たのは12月27日でした。
この異例の譲位に、皆が驚いた様子が目に浮かびます。
お悔やみ篇でご紹介した大伴旅人は、お酒がとても好きだったそうです。酒を讃むるの歌十三首を詠んでいて、なかなかに味わい深い歌です。その幾つかをご紹介しましょう。
・古の七の賢(さか)しき人たちも 欲(ほ)りせし物は酒にしあるらし
・賢しみと物言ふよりは酒飲みて 酔(ゑ)ひ泣きするしまさりたるらし
・あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ 人をよく見ば猿にかも似む
まぁ、小生は猿だな(w