10月 5日という今日は、一体どんな日でしょうか。
受験日本史に関わる出来事をチラ見してみましょう。
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1.誕生日おめでとう篇
1836年:江戸時代末期の幕臣、明治時代の政治家、榎本武揚(えのもとたけあき)。(グレゴリオ暦)
wikiに上げられている画像へのリンクです。→<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/Takeaki_Enomoto.gif
" title="榎本武揚" target="_blank">榎本武揚</a>
幕臣の子として江戸で生まれた榎本武揚は、蘭学を始めとした広い学識を持っていました。箱館奉行所に勤め樺太探検に参加し、また長崎海軍伝習所を経てオランダに留学します。
1868(明治元)年には江戸幕府の海軍副総裁になっています。同年、江戸開城後、幕府の艦隊を率いて脱走し、北海道に蝦夷島政府を樹立し、蝦夷共和国の総裁に選ばれます。しかし、攻めてくる新政府軍に抗しきれず翌1869(明治 2)年に五稜郭で降伏し、入獄します。
1872(明治 5)年に出獄して以降、今度は政治家として活躍する榎本武揚についてはまたいずれの日にか書くことにしましょう。
その榎本武揚が生まれたのが、1836年の今日のことでした。
2.お悔やみ篇
1912年:明治時代の法学者(憲法)、穂積八束(ほづみやつか)。満52歳没。(グレゴリオ暦)
wikiに上げられている画像へのリンクです。→<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/Hozumi_Yatsuka.jpg
" title="穂積八束" target="_blank">穂積八束</a>
受験に出題されそうな人物で今日亡くなった方には、高村智恵子女史がおられるのですが、既に誕生日で記事を書いているので、はたと困ってしまいました。余り大物が見当たらなかったのです。
東京帝国大学を卒業し、ドイツに留学した穂積八束は、1889(明治22)年に帝国大学教授となり、憲法講座を担当しました。特に有名なのは、八束は、民法典論争(民法の施行の是非をめぐっての大論戦が1890年ころにに行われたのです)に際して
「民法出デテ忠孝亡ブ」
を著して猛烈に反対しました。
法学者の有賀長雄(あるがながお)や美濃部達吉などからは、学説は権力的・概念的であるとして批判されました。
この穂積八束が亡くなったのは1912(大正元)年の今日のことでした。
3.出来事篇
今回、ご紹介するのは、
1339年10月 5日:足利尊氏が、天竜寺を創建しました。(旧暦)
という出来事です。
足利尊氏・直義兄弟は、同年 8月に没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、後嵯峨天皇の建立した亀山殿を禅刹とし、夢窓疎石(むそうそせき)を開山として暦応資聖禅寺(りゃくおうしせいぜんじ)と号しました。
この寺は翌々年、天竜資聖禅寺と改められました。
また、この造営資金を得るために幕府公許の貿易船として元に向けて天竜寺船を派遣するなど、内乱最中の造営であったため、苦労を重ねました。
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【編集後記】
天竜寺という名前の由来について、wikiに面白い事が書いてありました。以下に引用します。
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寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。
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文中で少し記述した民法典論争、これは民法の内容がフランス風で自由主義的であったため、日本古来の伝統たる家族制度を破壊するものとして、法曹界・政界の保守的な人々の間から強い反対が起こって、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論がなされたのでした。