歴史的に形成された「同一性意識」以外に国民国家を存立せしめる基盤となるのは「社会契約説」である。

バラバラの個人が、便宜上契約を結び、政府を作った。この人間観、世界観が、法の支配、自由、平等など、近代以後の政治思想の根幹となっている。


社会契約説は、ある政府の存在(または主権の行使)に理論的な裏づけを与える役割を果たしている。それは、ホッブズ・ルソー・ロックがいずれも政府の正当性を論点に議論を進めていったことからもわかる。


当然、社会契約説は完全なフィクションなので、ある国の領域、国民の範囲がなぜそうなっているかを、社会契約論からは一切説明することができない。なぜ人類は社会契約により人類全体で一つの国家を作らなかったのか。それは、歴史や慣習や文化から完全に独立した個人などどこにも存在しないためであり、そもそも不可能なことだからである。


社会契約説と自然法思想は、王による圧制の時代には社会を大きく動かす意味を持ったが、日本では、人権、立憲主義、民主主義など、社会契約説から導かれる観念が完全に定着してしまっている。


国家は歴史的に形成された「同一性意識」と「社会契約説」を根拠として存在する。この二つはもともとはまったく別なものだが、今では強固に結びついている。国家とは、この二つを根源とする政治的想像力の産物であり、常にわれわれの内部にあるものなのである。

 国家を論じるにあたり、避けて通れないのが定義の問題であろう。「国家」は一般的によく用いられる言葉であるが、論者によってさまざまな意味で用いられており、本書における国家の意味を表明する必要があると考えられる。


しばしば用いられるのは「国家」=政府という定義である。「政府」とは、通常、行政府(内閣に属する官僚組織)のみか、あるいは立法・司法・行政の三権を指す。例えば、国家行政組織法、国家賠償法という法律があるが、その法律名で用いられている「国家」とは、まさに政府を指すであろう。


また、国家を政府と同義か、国家という言葉が含む要素の大部分を行政機構ととらえ、いかにその権力の横暴を防ぐかという議論が行われてきた。国家=政府という前提に立つ議論は、個人の権利をいかに権力から守るかという傾きを強く持っている。そこでは弾圧する国家(政府)から個人がいかに脱するかが主要なテーマとなり、議論の中心は、個人と政府の関係に収束していく。それはそれで重要な論点ではあるが、本書においては、「国家」=「政府」であるという定義をとらない。それでは議論の範囲が狭すぎるのである。


国家の定義を、本書では以下のように規定する。国家とは、人間の歴史的・政治的な想像力の産物であり、我々の心の中に存在する意識である。一般に、国家の三要素は主権と領土と国民であり、それが国家であるとされる。


では、極めて抽象的なその三要素を結び付け、さらに抽象的な存在としての国家を存在させているのは、何か。我々国民一人一人が持つ国家意識にほかならない。我々は、身分の等しい日本人であるという意識を強固に持っているが、まさにそのこと自体が国民国家を成り立たせているのである。その意味で、三要素のうち、「国民」という概念が、国家の核心となっている。逆に、そのような意識を誰も持たなくなった瞬間、その国民国家は崩壊するであろう。


このような国家は、通常国民国家と呼ばれ、現在世界を覆うほとんどの国家が国民国家と言ってよいであろう。国民国家は、他から干渉されない絶対的な主権を持ち、その主権が一定の領域に確立しており、何らかの同質性意識を持つ国民が存在する。現在の日本において、国家の将来を論じるということは、必然的に国民国家に関する議論になるし、国民国家群によって構成される国際社会で、日本がどのようなスタンスでいるかということを議論することになる。



「何らかの同質性意識」については多少の説明を要するであろう。主権と領土と国民を結び付けているのは我々の想像力である。そのような想像力の源泉は、例えば同じ言語を話すということ、同じ民族であるということ、同じ宗教を信じているということ、共通の歴史を持つということ、共通の慣習や文化をもつこと、何らかの理念を共有していることなど非常に多種多様であり、国ごとにあり方も異なっている。 

nationの語源であるラテン語natioは、「おのずから生まれたもの」という意味であることから、中国やアメリカのような、理念で国家を統合している傾向の強い国は厳密には国民国家と呼ぶべきではないという議論もあるが、理念で統合されている国であっても、誕生した瞬間から歴史を持っており、そのイメージから逃れて存在することはできないのである。


 これらの共通の基盤(同質性意識と呼んでおこう)が弱い国は、常に崩壊の危機にさらされている。例えば、ユーゴスラビアは、その国内に様々な民族が分布していたため、ティトーというカリスマ的な指導者の存在と、ソビエトという脅威となる巨大勢力が消滅した途端、同質性意識が崩壊し、分裂と紛争が繰り広げられた。一口に国民国家といっても、その統合の基盤である同一性意識に関して言えば国ごとに極めて事情が異なっている。


 さて、本日は国民国家の根源的な存在根拠として、同一性意識をあげたが、次回はもうひとつの大きな存在根拠を述べる。

今日から私が考える日本の将来像について、書き綴っていきたいと思います。どんどんご意見いただければと思います。よろしくおねがいします。