天皇皇后両陛下が伊勢神宮を訪問されて、大変な賑わいでしたね。私もあともう少し伊勢が近ければ、行きたかったのですけれど、大切な用事もあったので断念しましたzzz 残念でした。
天皇家には尊敬と感謝の毎日です。
特に、伊勢神宮に皇祖神をお祀りなさった持統天皇には。

私は皇室の歴史について妄想を巡らしていますが、教科書で学んだイメージをちょっと疑って、日本という国家の礎となった古代の女性たちの愛ドキドキに近づきたいだけです。

日本で最初の女性天皇は、推古天皇ということになっています。
蘇我馬子に「推された」天皇即位だったのでしょう。少なくとも、淡海三船はそういう意味でネーミングしたことが推測できます。
推古天皇にしてみれば、息子の竹田皇子を天皇にするチャンス到来!で、蘇我大臣にしても、姪っこを天皇に担いで、言ってみれば傀儡のようなもので、政治は自分の思いどおりにと目論んだのか、お互いの利害が一致したのでしょう。
私の妄想では、
蘇我大臣は、やはり、傀儡にするなら、女の方がやりやすい、と言うことを聞かない崇峻天皇を亡き者にして、息子の即位を夢見る、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)を即位させた・・・という二人のドラマが見えます。
「お后さまの頭の中は、息子に皇位・王位を継がせることで頭がいっぱい」という世界共通の法則によると、そういうことになります。

竹田皇子は、残念なことに亡くなりましたので、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政をしたと言われています。
ただし、摂政の制度はこの時はまだ無かったそうで、そうなると、日本書紀を編纂した時の権力者、藤原不比等や、持統天皇の思惑が働いていないとも限りませんね。

推古天皇が、大臣の言いなりではなく、教え諭すこともあったという話も、真偽はともかく、これは残すべき逸話と、編纂者は判断したのかもしれません。

推古天皇が本当に天皇だったかさえも、もしかしたら、女帝と摂政政治の前例のためになるよう意図して書いたということはないでしょうか?蘇我大臣が当時、大王も同然だったとしても、そのようには書きたくなかったでしょう。

日本書紀は、皇位継承の前例を記録し、ルールを確立することになるので、よく考えて書かれていても不思議はないと思います。そして持統天皇と藤原不比等がお互いの地位の正統性・政治の正当性を主張するためでもあり、それは、孫や息子、子孫への愛ドキドキ、皇室の継続、日本の安寧に繋がることだった・・・のでは?

ちなみに、以前このブログの物語に書いていますが、私は蘇我馬子と厩戸皇子、聖徳太子は同一人物ではないかと、妄想しています。鞍作、司馬氏・・・みんな「馬」繋がり、ニヤリ 私の物語もなんとでも創れるのと同様に、と言うと、とても不遜ですけれど、日本書紀の物語もなんとでも創れます。でも、嘘、捏造、改竄などとは思いません。そこには、持統天皇の愛を感じたいです。深謀遠慮のない女帝なんて生き残れないし。