天下は久しく分裂すれば必ず統一に向かい、統一すれば必ずまた分裂に向かう——それが世の理というものである。
その昔、高祖劉邦は剣を提げて蛇を斬り、乱世を平らげて漢という一大王朝の礎を築いた。以来、幾多の盛衰を経て、王朝は後漢の世に至る。桓帝劉志が帝位に就いたのは、まだ若年の頃であった。幼い皇帝を戴く朝廷では、常に外戚——すなわち皇后や皇太后の一族——が実権を握るものである。彼らは天子の縁者であることを笠に着て権勢をほしいままにし、誰もこれに逆らうことができなかった。
しかし歳月が流れ、桓帝も成人するにつれ、この外戚の専横を疎ましく思うようになった。そこで彼が頼みとしたのは、身近に仕える宦官たちであった。皇帝の意を汲んだ宦官たちは次第に力を蓄え、外戚を排斥しようと画策する。ところが事はそう単純には運ばなかった。宦官の中には外戚と手を結び、互いに利用し合い、互いに牽制し合う者も現れたのである。かくして朝廷の内外は混迷を極め、少しでも公正な意見を口にする忠臣があれば、たちまち「党人」の烙印を押されて投獄され、あるいは闇に葬られる始末であった。世にいう「党錮の禁」とは、まさにこの時代の出来事を指す。
桓帝が崩御した時、後継となるべき皇子はいなかった。そこで解瀆亭侯・劉萇の子が迎えられ、皇位を継いだ。これが霊帝である。霊帝は即位するや、実母の董氏を宮中に迎え入れ、太后として尊んだ。
だが霊帝はまだ幼く、自ら政を執ることはできなかった。表向きの権力は母・董太后が握っていたが、実のところ、真の権を握っていたのは太后でさえなく、皇帝の側近く仕える幾人かの宦官たちであった。
当時、霊帝の周囲には十人の宦官がいた。張讓を筆頭に、趙忠、封諝、段珪、曹節、侯覧、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝——この十人は「十常侍」と呼ばれ、その悪名は都中に轟いていた。彼らは狼と豺のごとく徒党を組み、賄賂を貪り、法を枉げ、悪事という悪事を尽くした。なさぬことなく、天子の目を欺き、民の膏血を搾り取る。当時の民草の彼らに対する怨みは骨髄に徹し、「その肉を食らい、その皮の上に寝たい」とまで囁かれるほどであった。
しかし霊帝はこの十人をますます寵愛した。中でも張讓を「阿父」と呼んで敬い、あたかも実の父のごとく扱った。蹇碩は大将軍に任じられ、他の者たちも次々と列侯に封じられる。こうして十常侍の専横は、いよいよ憚るところを知らぬものとなっていった。
朝は乱れ、民は苦しんだ。まさに「官、民を逼りて反せしむ」の言葉どおり、各地の農民が次々と蜂起を始める。彼らは頭に黄色い布を巻き、次のような四句の言葉を旗印として掲げた。
蒼天已死、黄天当立。 歳在甲子、天下大吉。
——蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下は大いに吉なり。

徐州、青州、幽州、冀州、荊州、揚州、兗州、豫州——この八州、時に西暦一八四年、漢の霊帝の中平元年、ついに一斉に蜂起の火の手が上がった。
これが後の世に語り継がれる、あの黄巾の乱の始まりである。
乱世の幕は、今まさに切って落とされようとしていた。