今日は、安田靫彦先生が遺された「火燿会」で20年以上ご指導を頂いた鎌倉秀雄先生のご命日です。

安田靫彦先生門下では、亡き師森田曠平先生の弟弟子にあたられます。

2017年7年前の今日、春の院展の審査の日の朝に先生は亡くなられました。

風邪から肺炎になられ入院、一旦退院されていたようですが、急に容態が悪化して呼吸器不全で亡くなられています。

人一倍責任感の強い先生でしたので、審査の日までに治さなければと退院を少し急がれたのでは無かったのか、私はそう感じています。

家族葬のみでお別れが出来ず、少し間を置いて同門有志数名でご自宅を弔問いたしました。

翌2018年から毎年の祥月命日には千葉県保田の海を見下ろす小さな山の上にあるお墓を墓参していましたが、コロナ禍と体調の都合でもう3年以上墓参は叶っていません。

もう少し近いと良いのですが、保田までは拙宅からも都内からも遠いです。

今年はまた、自宅から手を合わせる事になりそうです。先生ごめんなさい。

鎌倉先生のお父様は沖縄の首里城の再建の重要なキーマンとなられた琉球紅型の研究家で染色家、人間国宝の鎌倉芳太郎先生です。

そのご両親と共に先生はこちらのお墓に。

海を見下ろす温暖で長閑でとても気持ちの良い環境の墓地で、沢山のトンビが上空を旋回します。

斜面には、今頃は青青とした草原のあちこちに水仙の花が咲いているはずです。

※日本画家の鎌倉秀雄は2017年3月14日、呼吸不全のため死去した。享年86。

1930(昭和5)年10月27日、東京・麹町に生まれ、その後すぐ田端へと転居する。父は73年に型絵染の重要無形文化財保持者に認定された鎌倉芳太郎、母は帝展洋画部で活躍した山内静江で、幼少期より院展や帝展、戦争画展などに親しみ、独学で武者絵などを描いていたという。43年東京市桃園第三国民学校卒業、東京都立石神井中学校(現、東京都立石神井高等学校)へ進む。戦後の46年夏、父の故郷である香川県を訪れた帰り、奈良の斑鳩で古寺をめぐり、阿修羅像を見て感動を覚えた。同年11月には朝日新聞の美術記者遠山孝の紹介で大磯の安田靫彦を訪問、持参した作品を見せ、入門を許される。鎌倉は東京から大磯へ毎週通い、写生を見てもらったり、天平時代の乾漆像の話などを聞いたりしたという。また、靫彦の勧めで若手の勉強のために開設された一土会に参加。新井勝利、加藤陶陵、森田曠平、沢田育、松田文子、宮本青架、友田白萠らと研鑽を積んだ。47年東京美術学校の受験に失敗、師靫彦の助言で進学を止め、中学校も退学、画道に邁進する。49年には火燿会に入会。また、44年まで東京美術学校助教授であった父の関係で、自宅によく来ていた里見勝蔵、清水多嘉示らから西欧美術について教示を受け、彫刻家の川口信彦から裸体デッサンやエジプトのレリーフなどについて教えを受けた。

51年師靫彦の許しを得、第36回院展に自宅の黒い犬を描いた「黒い犬と静物」を出品、初入選を果たし、以後も入選を重ねる。一土会解散後は靫彦門下の有志とともに青径会を結成、吉田善彦、郷倉和子、小谷津雅美、吉澤照子、小市美智子、西川春江らと研鑽を積む。鎌倉の交友関係は院展内部にとどまらず、日展系の作家にまで及び、戦後のさまざまな新しい傾向を会得していった。61年には第46回院展へ「天河譜」を出品して奨励賞を受賞、翌年の第47回展でも「月花」が奨励賞となる(第60、62、64、65回展でも受賞)。72年はじめてインドへ旅行し、同年の第57回院展に「熱国の市」を出品、特待に推挙される。以後もインドを主題とした作品を出品し、78年第63回院展の「乳糜供養」が日本美術院賞となった。またエジプトにも訪れ、81年の第66回院展へ古代エジプト墓室内の王妃と侍女を描いた「追想王妃の谷」を出品、2度目の日本美術院賞受賞。同年11月24日付で同人に推挙された。この頃より鎌倉は日本美術家連盟の委員を務めている。その後も「奏」(第67回院展、1982年)、「回想」(第68回院展、1983年)、「望」(第69回院展、1984年)、「砂漠へ」(第70回院展、1985年)、「樹精」(第41回春の院展、1986年)などエジプトを主題とした作品を次々に発表するが、87年からは一転して日本の伝統的な美へと目を向けるようになった。87年の第72回院展へは奈良・興福寺の阿修羅像を描いた「阿修羅」を出品、文部大臣賞を受賞。鎌倉はこの年の1月より、東京国立博物館で行われていた「模造古彫刻」の展観に出ていた阿修羅を連日写生し、興福寺へも実際に足を運んで出品作の制作にあたったという。同作は翌88年3月、文化庁の買い上げとなった。1989(平成元)年には第74回院展へ出品した「鳳凰堂」で内閣総理大臣賞を受賞。同年11月には日本橋三越にて個展を開催する。92年の第47回春の院展には鼓を打つひとりの舞妓を描いた「豆涼」を出品し、秋の第77回院展にもふたりの舞妓で構成した「豆千鶴・豆涼」を出品。鎌倉は舞妓の姿に、幼少期に見た歌麿の美人が重なるとして、以後も「豆涼・如月」(第48回春の院展、1993年)、「豆涼・新緑」(第78回院展、1993年)、「春宵豆涼」(第51回春の院展、1996年)、「豆千鶴」(第53回春の院展、1998年)などを出品している。一方で引き続き、古寺や仏像をテーマにした作品にも取り組み、「大仙院雪色」(第49回春の院展、1994年)、「法華堂内陣」(第79回院展、1994年)、「平等院阿弥陀如来像」(第80回院展、1995年)などを制作。96年の第81回院展には、5年来描き続けてきた京都・浄瑠璃寺の集大成として、「緑風浄瑠璃寺」を出品した。この間、94年6月には日本美術院監事となり院の運営にも尽力する(のち常務理事、業務執行理事)。99年の第54回春の院展には再び舞妓を描いた「豆菊・春陽」を出品、2003年頃まで「羅浮梅少女」(第84回院展、1999年)や「木花之佐久夜毘売」(第85回院展、2000年)、あるいは唐美人を描いた「胡楽想」(第87回院展、2002年)など、古典的な女性像の表現に取り組む。さらに06年からは第91回院展へ出品した「この実に裕美」のように、日本の現代女性を題材に作品を制作。晩年には梅や椿に猫を配した作品を多く展覧会へ出品した。
 
幼少期から抱き続けた天平というテーマを軸としつつも、インドやエジプトに取材した作品や、さまざまな女性像など、多彩なモチーフを手掛けた画家であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(435-436頁)