没後80年記念 小堀鞆音展  続々 | 絵師 高橋天山ブログ

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日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

 堅実な技能と、深い歴史研究、並びに、有職故実探求を駆使して、小堀鞆音画伯は、日本人の精神の根源たる【武士道】を絵画化してしまうという快挙を成し遂げたのです。

前人未到であることは勿論、今後もこの記録を破れる偉人が現れるかどうかわからないという位、格段のレベルに到達したことは、日本人にとって、日本の文化にとって、この上ない幸いでありました。

大観に負けないほど熱烈な勤皇画家であった故に、究極の日本文化を現出することができた、正に、日本画の王道だけを歩んだ尊い絵師であったのです。

【画家】と言う呼び名、は、白人文明がもたらした悪しき表現であると私は、常に思っておりますが、画家と言う存在は日本画の世界では“在り得ない”。のであって、日本画の世界ではすべからく絵師、でなければならないのであります。

この事については、いずれ、別の時にじっくり述べる事にしましょう。ともかく・・・・

似非ユダヤ人が己の欲望を正当化するために捏造した西洋文化の悪しき習慣の一つが、【画家】という呼び名であり、その存在そのもの、であります。

どうも、東京美術学校を新設し、西洋文化を取り入れて西洋と対抗出来るように、新たな日本文化を打ち出さねばと、“新機軸打ち出し”に躍起になっていた岡倉天心校長と大和絵の真髄を行こうとする鞆音画伯の、ソリガ会わなかったのは、この部分。むしろ当然のことであったのではないかと思うのです。

現実主義を組み入れる為に配置された高級官僚と、絵師としての本分をこそ守らねばならないと若い情熱をたぎらせていた鞆音画伯と、合致する筈もありません。




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  昭和初期、大礼服の小堀鞆音画伯


 東京美術学校教員時代に、【経正詣竹生島】、【武士】、【常世】、と。立て続けに大作、で代表作を連発し、岡倉天心下野に伴って、院展の創設に関与してからは、百幅会を催し、掛け軸の佳品を百点描きつくし、まさに大活躍。

甲冑研究も深めて、自分で材料からすべて制作してしまうという傾倒ぶり、極めねばすまない大和魂が疼いて仕方がなかったようです。

現在も世田谷に瀟洒な和風建築が立派に残されていて、画伯在生中は、アトリエとして使われたその堂々たる一軒家が画伯そのものの様な風格で、佇んでいます。

寡黙で、やるべきことは徹底的にし尽くす。実に、深い、ブレることのない、奥床しいその画風は現代人の皮相さをあざ笑うかのように高いレベルに達しています。




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