旅順、大連、奉天  -3ページ目

コンドラチェンコ将軍の碑

カポニエール施設の右翼側の地上部分に、コンドラチェンコ将軍の戦死の地、という記念碑が建っていました。

ロシア軍の中でも兵士に特に人望があったそうで、明治37年12月15日、最前線で督戦中のところ、飛来した28榴の砲弾が命中し戦死された場所だそうです。
コンドラチェンコの戦死により、ロシア軍の士気が一気に低下して、さらに司令官ステッセルの戦意も大きくくじかれ、旅順降伏につながったのだと言われています。

コンドラチェンコは日本軍からも一目置かれていたため、戦後、敬意を表してわざわざ敵将が戦死した場所にこの記念碑を建てたようです。

望台

東鶏冠山北堡塁の南西、見上げるような高台がそびえていますが、この高台が旅順東北正面で最高峰の「望台」高地です。

山頂には記念碑代わりにロシア軍のカノン砲が残されており、遠くからも見ることが出来ます。

明治38年1月1日、ここ望台が陥落し、旅順開城のきっかけとなりました。

見てわかるように、東鶏冠山も完全に射程内に収められています。(逆に近すぎて死角かもしれません)
砲が向いている写真の右側方向には、二龍山、盤龍山、松樹山、竜眼北方などの各堡塁がありまして、それらも射程内です。

たとえ日本軍がひとつの堡塁や砲台を占拠したとしても、このように、すぐ隣やその向こうの山々のロシア軍の砲台からの砲撃や銃撃を受けてしまいます。

どこもかしこも、ありとあらゆる砲台や陣地の射程内ですから、ひとつの山に攻め上る際には、目標のロシア軍陣地からの銃砲撃より、周囲からの銃砲撃による被害のほうが大きかったことでしょう。

大弧山

東鶏冠山から西南西方向を眺めると、とおくに大弧山が見えます。

この大弧山は旅順要塞の本防御線の外部に位置し、大弧山の向こう側(南側/海側)に小弧山をはじめとする低い連峰が続いて、天然の要害をなしています。
旅順要塞本防御線への総攻撃に先立ち、明治37年8月6日、第3軍の第11師団が担当しここ大弧山、小弧山への攻撃を開始、3日間の先頭で1200名の死傷者を出して占領しました。

遠くからでも急峻な斜面の様子が良くわかります。この斜面に張り付いた日本軍に、ロシア海軍が海上から艦砲射撃まで加えて防戦したそうです。上から撃たれて海からも撃たれたんじゃ全くたまりませんね…。

大弧山の攻略により旅順のロシア軍外郭陣地の攻略を完了し、旅順要塞の攻囲態勢を確立した第3軍は8月中旬より第1回の総攻撃を開始しました。

203高地(旅順港側から)

旅順港側から見上げた203高地です。

写真の右側が東北山頂(203m)、左側が西南山頂(209m)で、つまり203高地は「ふたコブ」の山です。

当時のロシア軍は、この景色を眺めながらせっせと山頂の防衛のため援軍を送り続けたのでしょう。

203高地

ここが「203高地」です。
この高地をめぐり、第3回総攻撃では、第3軍は死傷者1万人も出しやっと占領しました。(明治37年12月15日)

写真手前が中央山頂、奥が標高203mの東北山頂です。

じつは、写真のさらに手前側が西南山頂なんですが、こちらは標高209mあるそうで、じつはこの山は209高地なんですが、なぜか203の方が定着しています。

203高地 東北山頂の碑

東北山頂には記念碑が建っています。
銃弾をかたどった碑に「爾霊山」のレリーフが…。ここはまさに「なんじの霊の山…」、当時の戦死者の無念の声が聞こえてきそうです…。

旅順港が一望のもと…

203高地の東北山頂より、旅順港を見下ろした光景です。
まさに「旅順艦隊の各艦、一望のもとです!」の場所ですね。
この場所に立ってこの景色を眺めることが出来て感無量です…。

明治37年12月5日、ついに山頂を占領した日本軍はすぐさま砲兵観測所を開設、翌6日から11日までの28センチ榴弾砲による連続砲撃により、ロシア旅順艦隊は港内で全滅しました。

203からの眺め

203高地の東北山頂から真東方向を眺めると、東北正面の山々が見えます。

中央やや左寄りが松樹山、その向こう(写真中央)が二龍山、その向こうに東鶏冠山と続き、ここが旅順要塞の主防衛線でした。

ここを抜いてしまえば、あとは旅順市内までたいした陣地はありませんので、これら3山の陥落(+望台)によりステッセルが戦意を喪失したのも無理はないですね。

松樹山の手前あたり、有名な白襷隊が突入を狙ったのがこのあたりのはずです。
夜陰に乗じて潜入を図りましたが、地雷を踏んで発見され探照灯で照らされたところを猛攻撃され全滅します。

東鶏冠山から市内に入る際、松樹山の裏手あたりの山道を通って降りてきましたが、おそらくそのあたりが白襷隊が全滅させられた地域じゃないかと思いました。

なお、写真の左下にチラッと写っていますが、ここに「ロシア軍のカノン砲」というオブジェが2つあるんですが、あきらかに、というより、どうみても子供の公園の置物レベル、それを白々しく「本物です」って紹介してるんですが、いい加減にして欲しいです…。こんなインチキ展示物まで作らなくても…。

209mの西南山頂

展望台のような施設と、明らかにつくりものの自称"ロシア軍の大砲"というものが置かれています。中国当局はインチキ展示物が好きですねぇ。

写真左手前の地面のコンクリートの遺構のようなものは、何かの跡のようですが全くわかりません。

写真の左側が旅順港側、右側が日本軍が攻め上ってきた方向です。
手前に下ると中央山頂。

東北山頂の遺構

東北山頂から北西面の斜面(日本軍の攻撃ルート側)のちょっと下に、コンクリートの構造物の残骸が残っていました。
また、この手前には、すでに埋もれて浅くなっていますが、塹壕の跡のようなものがありました。

なお、中央山頂より北西面の斜面に降りる階段があり、そこを下っていくと乃木保典の戦死の碑があるそうですが、だいぶ下だそうなので見に行きませんでした。
同行者のTさんは走って探しに行かれていました。

その周辺には、石積みの塹壕のようなものがあり、「ロシア軍の塹壕跡」という案内がありますが、これも近年作り直されたもので、余計なお世話の展示物です。なぜそのまま保存しないんでしょうか…。困ったものです。

しかし、203高地の斜面は、想像していたより急斜面です。
これを真っ直ぐしたから登ってくるんですから、当時の日本兵の苦労は相当なものだったでしょう、しかも周辺の山からの銃砲撃、ロシアの203防備陣地からの銃撃などを受けながらの登坂…、凄まじいものだったでしょう。

いまでは植林で全山木々に覆われていますが、占領直後の当時は、物凄い凄惨な光景が広がっていたに違いありません。。。