『齋部氏家牒』には、『先代旧事本紀』編纂に際して「家記・祝詞」等を献上したとあった。同様の伝承は、『因幡國伊福部臣古志』の譜にも「(推古天皇朝、国史編纂の)時に、先祖等の仕へ奉る状を具に顕し白し云々」とあり、「伊福部臣」氏の「家記」も提出されたことが知られる。また『日本書紀』の編纂に係わるものではあるが、『住吉大社神代記』の末尾にも「本縁起等を、宣旨に依り具に勘注、言上の所件の如し」とあり、『日本書紀』自身も持統天皇五年八月条に諸家十八氏の「祖等の纂記を上進せしむ」と記す。

 これらの記録からも明らかなように、日本の国史編纂事業では諸氏族が所持していた「家記」類が集められ、それらを選定編集する方法がとられたのである。それでは史書になぜそのような編纂方針が取られたのか、その意義の一つには、国史に諸氏族の功績を登録すると云う目的があったと思われる。

 大和王権も誕生以来、王権内の権力闘争を重ね徐々に強固な支配体制を確立していったようである。権力闘争にあっては(昔も今も変わらず)有力な王者達のもとに、諸氏族の離合集散が繰り返されながら王権は成長してゆく。その際には、王権の確立に寄与した同盟諸氏族の功績は報われなければならないであろう。

 やがて成長した大和王権は、国土統一の為に日本全土への進出を始める。それは結果的に五百年をも費やす大事業であった。広い国土へ隈なく進出するためには、臣下・配下の諸氏族の協力が不可欠である。従って全土へ進出した諸氏族には、その平定した土地に一定の領有権が認められたのであろう。その統一事業のための諸氏族の成果をまとめたものが『先代旧事本紀』の「国造本紀」なのである。このような「家記」の記述を国史に記載する行為とは、諸氏族の功績を登録することであった。

「古代氏族」と云われる諸氏族は、皆それぞれに「家記」を所持していて、そこには自氏族発祥の祖先神から始まる系図や、大和王権への奉仕来歴など、その氏族の由来が記録されていたのである。それは現代風に云えば、その家の「履歴書」のようなものであった。そして恐らく、その「家記」の内容により各氏族の血統関係が定められ、王権内の地位もまた自ずから定まると云うような性質のものであったと思われる。(このことは後の時代、平安時代初期の『古語拾遺』や『高橋氏文』、あるいは『新撰姓氏録』の成立にまで及んでいる問題である。)

 このような諸家の「家記」が国史に登録されることの意義は、その氏族が大和王権の一員、所謂支配者層としての地位を王権から承認されたと云うことにある。(その反面、支配者層の一員ではあるが、大王の臣下・配下としての地位も同時に定められてしまったと云うことでもあるが。)日本の古代国史もまた単なる歴史を記述しただけの書物ではなく、それは国家統治のための規範書であり、制度文書でもあることを読み解かなければならないであろう。