史書の形式に「紀伝体」形式と「編年体」形式とがあることは既に紹介した。中国では「紀伝体」の史書

を「書」と表現し、「編年体」の史書は「紀」と表現する。例えば中国の正史である『漢書』や『後漢書』

などは「書」字を持つことにより、いずれも「紀伝体」で書かれた史書であることを表している。それに対し

て『漢紀』『後漢紀』などの「紀」字は「編年体」史書であることを表す。従って、中国では当然のことな

がら形式の異なる史書を表す「書」と「紀」を同時に用いる「書紀」という書名の史書は存在しない。

ところが『日本書紀』は「書紀」と云う言葉を持つ。この漢字の国中国には存在しない不思議な言葉は従

来からも注目され、その意味については種々の推測がされてきたのであるが現在でも謎のままである。

 『日本書紀』奏上について、『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』の養老四年五月条は「修日本

紀」と書くから、『日本紀』が奏上時の公式書名であったと思われる。それがいつの頃からか「書」字が加

えられ『日本書紀』とも呼ばれるようになり、この二つの書名は並行して使われてきた。

『続日本紀』が『日本書紀』を『日本紀』と書くと云うことは、中国の例に倣えば、当時の編纂者達は

『日本書紀』を「編年体」の史書と主張していた(あるいは「編年体」史書として読ませようとした)ことになる。(従って後続の「六国史」も『続日本紀』『日本後紀』のようにいずれも「紀」と名付けられている。)しかし『日本紀』(編年体史書)と名付けられたが、実はその中身は「紀伝体」史書であることを当時人々はみな知っていたのであろう。そこで『日本紀』とは称するが、本当は「紀伝体」史書であると云う意味から「書」字を加えた『日本書紀』と云う書名が生まれたのではなかろうか。あるいは史書の前半は「書」であるが、後半は「紀」であると云う意味の「書紀」と云う言葉が造語されたのかも知れない。

このように「書紀」と云う造語が生まれた理由も、『先代旧事本紀』が「紀伝体」の史書であったことが

分れば解明されることになる。

『先代旧事本紀』は編纂主導者「聖徳太子」の薨去により中断された未完の史書である。もし太子が存命

で『先代旧事本紀』が完成されていたならば、その序の記述内容から推して、それは中国正史が「書」と呼

ぶに相応しい形の国史として成立していたことであろう。そしておそらく、その国史こそは『日本書』と命

名されたであろうと想うのである。