ブログを更新できずにいて申し訳ない。


 手書きで提出のため結構時間がかかってしまった。

 内容は藤原氏の系図について調べるものだったので、お詫びの代わりに一部をUPする。だれか、藤原氏のことを書かなければならないときは引用してほしい。(そんな機会はないかw)


藤原氏は大化の改新で功のあった中臣鎌足が天智天皇から藤原の姓を賜り、子の藤原不比等の流に認められたことに始まる。

藤原不比等は大宝律令などを作成し、藤原氏の基盤をつくった。

藤原不比等が死去した後に外孫の聖武天皇が即位すると不比等の子である藤原四兄弟と天武天皇の孫である長屋王ら皇族を中心とする一派が対立し始めた。

このために藤原四兄弟が画策したと言われる長屋王の変がおこり729年に長屋王は自害した。

その結果、藤原氏の力に逆らえるものがいなくなり、藤原四兄弟は武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれた。

しかし、737年の天然痘大流行により四人全員が死去した。そのために、反藤原勢力の橘諸兄や吉備真備が藤原氏の勢力を弱めようとしたが、藤原仲麻呂により失敗した。

南家

武智麻呂の次男、藤原仲麻呂が淳仁天皇を擁立すると息子3人を参議とするなど権力を独占した。しかし、孝謙上皇が道鏡を信頼して彼の進言を聞き始めるようになると、道鏡を遠ざけるよう淳仁天皇に進言して、孝謙上皇に伝えたがこれに対して激怒した上皇との関係は修復不可能なものとなる。

その結果、藤原仲麻呂は軍事力を掌握しようとするが露呈して、後ろ盾の淳仁天皇の力がそがれる結果に終わった。そのために、越前国に行き再起をはかろうとしたが官軍に阻まれて失敗し、逃亡中に捕縛されて斬首された。その後も南家の人物は朝廷で要職に就くことはできたが、武智麻呂の長男である藤原豊成の子継縄と、三男の乙麻呂の子是公両名の子が伊予親王の変で失脚すると、衰退していく流れに逆らうことはできず中央貴族としての地位は失われていった。

北家

藤原四兄弟の中で最も栄えることのできた北家は、初めから強いと言うわけではなく、南家や式家に押されぎみであった。しかし、伊予親王の変で南家が、薬子の変で式家の勢力が衰えると房前の曾孫である藤原冬嗣が嵯峨天皇の信任を得て急速に台頭した。父である内麻呂よりも上の左大臣の地位まで昇りつめ、死後には位階では最上位である正一位を贈られた。

その後、冬嗣だけでなく、良房、基経と北家嫡流が三代続けて天皇の外祖父となり北家の勢力を保持し続けた。この藤原基経が初代関白について以降、関白の職は藤原北家しか就けない決まりになった。そのために、天下統一した豊臣秀吉も近衛家の猶子になることで関白職にようやく就くことができた。

その後も北家の人材が朝廷で最大の勢力を確保し続け、道長・頼道の代で全盛期を迎える。

頼道の子孫が五摂家(近衛家・九条家・一条家・二条家・鷹司家)を輩出し、最高家格を独占するようになった。

式家

宇合が天然痘で死去して以降、すぐに長男の広嗣が大宰府へ左遷させられた。そのために当時政治の中枢にいた吉備真備と玄昉を廃するために挙兵した。しかし、逆に朝廷軍に討伐されて逃亡の末に斬首された。このために式家の勢いは大幅に衰えたかに思えたが、広嗣の弟たちが光仁天皇の擁立に成功すると政治の中枢に返り咲くことができた。この弟たちの娘が天皇の妃となり、子を産んで天皇に即位させることに成功すると式家を繁栄に導くことに成功した。そして、宇合の孫である藤原種継は長岡京造営の事業を任されるまでにいたった。しかし平安初期に平城上皇と嵯峨天皇が対立したことにより、平城上皇の愛妾である藤原薬子が平城上皇の復位を企むが失敗した薬子の変が起きた。このことにより、式家の力が衰えることになる。その後、北家の冬嗣が死去した後に宇合の孫の諸嗣が淳和・仁明朝において15年以上も台閣の首班の座を維持したが、諸嗣がなくなると式家の勢力が政治の中枢に立つことはなくなった。

京家

四家の中で最も振るわずにいて、文化人などを数名出すのみに終わった。



途中、誤字脱字もあった気がするが、提出物では直してあるので問題はないはず。

それにしても、京家は何も活躍できなかったなw