幕末における越後の風雲児といえば誰を思い起こしますか。

 

 幕末に長岡藩で家老を務めた河井継之助がそれにあたります。

 

 会津の話をしているのに何故越後長岡の人物を取り上げるのかと思う人もおられるかも知れませんね。只見町という場所は数奇な運命のこの人が最後を迎えた土地なのでした。

 

 

 

 

 会津塩沢で只見線を降りると、「河井継之助終焉の地」とののぼりが見えます。

 

 戊辰戦争の折、日本は薩摩・長州を中心とする西軍に対し、西軍から一方的に朝敵扱いされた会津を擁護しようと東北諸藩を中心に奥羽越列藩同盟(東軍)が結成されます。

 

 越後長岡藩は東軍に心を寄せながらも長岡を守るため、武装中立の道を選びます。越後に迫る西軍に対して小地谷で西軍の軍艦岩村精一郎と会談し、長岡藩の中立を前提に、会津に対して穏便な措置をとることを訴えます。しかし彼の訴えは一蹴され、西軍が長岡に押し寄せることになります。(1868年 北越戦争)

 

 西軍に占領された長岡城を一度は押し返すことに成功しますが、流れ弾が足に被弾、長岡から会津に避難することになります。そこで八十里越といわれる峠道を越えて只見まで来ますが、そこでいよいよ病状が重くなり、惜しくも没してしまいます。

 

 会津にとって越後は隣国。しかも会津にとっても仇敵である西軍を相手に堂々と闘ったいわば英雄。会津の人は手厚く弔い、今でも慕われているようです。

 

 

 

 

 只見線踏切です。ここを左に行くと河井継之助記念館、右に行くと彼の墓がある医王寺です。まずは医王寺から。

 

 

 

 

 現在の医王寺です。弘法大師造が立っています。でも普段は無住なのか人影はありません。

 

 

 

 

 本堂の背後に河井継之助の墓があります。只見町の指定史跡になっています。

 

 

 

 

 方形の簡単な石塔があるのみですが、きれいに掃除され、新しい花が備えられています。地元が大事に守っているのが分かります。

 

 

 

 

 そして町立の河井継之助記念館です。

 

 

 

 

 河井継之助が最後の時を過ごした部屋を、資料館の中で復元しています。

 

 

 

 

 志を果たせず亡くなった彼の無念さとともに、でもするべきことには手を打ったという複雑な思いが伝わりそうです。彼は亡くなる直前に、亡くなったらすぐに火葬し、遺骨は絶対西軍の手に渡すなと遺言したそうです。

 

 

 

 

 入口には彼の銅像が。

 

 

 

 

 長岡藩は幕末の風雲急な中、近代化を進め、ガトリング砲も用意していました。

 

 

 

 

 司馬遼太郎が小説『峠』の取材で只見に来た時、周囲の風景を眺めた場所です。資料館の敷地の中にあります。

 

 

 

 

 「河井継之助終焉之地」「製塩記念碑」

 

 

 

 

 まだここでは製塩も行っていました。海もないのに製塩なんてと思われるでしょうが、山から湧き出る鉱塩泉をもとに製塩を行っていました。山間部では非常に貴重な資源でした。この山塩資料館は記念館に隣接して設けられています。

 

 

 

 

 山塩資料館では製塩の様子を復元した模型も展示されています。

 

 

 

 

 只見線の「会津塩沢駅」です。静かなたたずまいです。

 

 

 

 

 電車の本数は少ないですが、貴重な公共交通。地域のため、楽しい鉄道旅行のため、いつまでも残ってほしいです。