皆さんこんにちは。天王寺七坂巡礼も3回目になりました。

 

 今回は口縄坂(くちなわざか)をご案内します。ところで口縄って何のことかご存知ですか。

 

   古い言葉であり、今はあまり使わない言葉ですが実は蛇のことなのです。

 

 そう言うと蛇が出てくる坂かと思う人がいるかも知れません。

 

 ご安心ください。道の起伏がなんとなく蛇のように見えるから口縄坂という名になったそうです。

 

 

 

   口縄坂を下から見たところです。確かに蛇のように見えなくはありませんが、そんなに不気味な雰囲気でもないですね。

 

 

 

  口縄坂の登り口にある善龍寺という浄土宗寺院です。こちらの地蔵さんは海中より出現したいわくのある地蔵さんのようです。

 

 

 

 上から見た口縄坂です。確かに起伏が蛇のように見えなくはありませんが、何か落ち着いた雰囲気ですね。

 

 

 

 坂の途中に地蔵さんをまつった小さなお堂もありました。

 

 

 

 そして口縄坂の途中には織田作之助が口縄坂について書いた一節が、石碑に刻まれていました。文学作品に出てくる地名は趣がありますね。

 

 

 

 口縄坂から少しそれた所にこの周辺を考えるのにはずせない遺跡があります。明治期に外交官を務めた陸奥宗光一族の墓所があったのです。陸奥宗光は先代の功績を讃える文の中で、夕日が美しいこの地のことを夕陽岡と呼んでおり、そのことから夕陽岡という地名になったのです。

 

 陸奥宗光がこのように記した背景には、それよりはるか以前にこの地に移り住んだ歌人藤原家隆の存在と、それに対する憧憬の念がありました。

 

 この陸奥家墓所のすぐ隣には、藤原家隆の塚があるのです。

 

 

 

 これが家隆塚です。藤原家隆は鎌倉時代前期の歌人で「新古今和歌集」の選者の一人ともされてきた人です。しかし世俗の官位などには恵まれず、晩年は病を機に出家し、この天王寺で庵を結びました。ここから西の海に落ちる夕焼けは実に素晴らしく、「契りあればなにわの里にやどりきて 波の入り日を拝みつるかな」と風景を歌に詠み、この地の草庵で消え入るように亡くなったそうです。この歌と逸話は世間で有名で、幾多の人々が藤原家隆を忍び、ここを訪れたのです。先述の陸奥宗光の一族も同様で、藤原家隆の生き方に共感することが多く、「夕陽丘」という地名を残し、それで後世にまで知られるようになたったのです。

 

 

 

 家隆塚の前には一匹のきじねこがいました。眠そうな顔をしながらも「ニャー」と鳴きながら、歓迎してくれている模様でした、小生が猫好きだと分かったのでしょうか。なんだかうれしい気分でした。ネコとの遭遇が多いのも七坂の魅力としたいですね。

 

 

 

スタンプラリー台紙より

 

 

 

 

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