摂津国八十八カ所てくてく巡礼記 大阪市域13 第十五番 雪光山 圓珠庵
第十五番 雪光山 圓珠庵 通称:鎌八幡 六大院の山門をあとにして、道を渡りました。ほんの数歩です。しかし一歩踏み入れた瞬間、空気が変わりました。同じ寺町の、道ひとつ隔てた向こうに、これほど異質な気配が満ちているとは。他の札所とは明らかに漂う霊気の質が違う。圓珠庵、通称・鎌八幡。摂津国八十八カ所の中でも異色と言われるこのお寺の正体は、境内に一歩入ればすぐに知れます。榎の霊木と鎌のこと その昔、この付近は三韓坂と呼ばれた古道でした。その道の脇に一本の榎の霊木があり、人々の信仰を集めていました。いつの頃からか、この榎に向かって鎌を打ち込み「鎌八幡大菩薩」と称して祈念する風習が生まれました。鎌で何かを断ち切る——その呪術的な行為が、人々の切実な祈りと結びついたのでしょう。 慶長19年(1614年)、この地のすぐ東側に真田丸を築いた真田信繁(幸村)がこのご神木に参拝し、習わし通りに鎌をご神木に刺したところ、大坂冬の陣の真田丸の戦いで徳川方に勝利しました。戦後、信繁はそのお礼としてご神木の祠を建て替えたと伝えられています。 以来、鎌八幡は悪縁を断ち、病根を断ち、縁切り・勝負事祈願の神として広く信仰を集めてきました。現在もご神木の榎には、祈祷に訪れた参拝者が打ち込んだ無数の鎌が刺さっています。その光景は、信仰の凄みというものをまざまざと見せつけます。国文学者・契沖のこと 鎌八幡の強烈な印象に隠れがちですが、圓珠庵にはもうひとつの重要な歴史があります。江戸時代初期、国文学者として有名な高僧・契沖阿闍梨がこの鎌八幡の境内に庵を建て、圓珠庵と称しました。契沖はここで『万葉代匠記』や『和字正濫抄』を著し、国文学の研究に専念しました。歴史的仮名遣いの成立に大きな影響を与えた「契沖仮名遣い」は、まさにこの境内で生まれたのです。 鎌を打ち込む呪術的な祈りの場と、日本の国文学を塗り替えた学問の場が、同じ境内に共存していた。この振り幅の大きさが、圓珠庵という場所の底知れなさを物語っています。元禄14年(1701年)、契沖は圓珠庵にて62歳で亡くなり、墓所は境内に設けられました。大正11年には境内が大阪市で最初の国の史跡に指定されています。境内にて境内は全域撮影禁止です。これは単なるルールではなく、この場所の本質を示しています。ここに参拝に来る人々は、人に見せられない切実な祈りを持ってやってきます。悪縁を断ちたい、病を断ちたい、苦しい状況から抜け出したい——その祈りのプライバシーを守るための撮影禁止です。観光気分で訪れてよい場所ではない、という無言の宣言でもあります。八十八カ所の巡礼として手を合わせながら、ここに集まる人々の祈りの重さをしみじみと感じました。摂津国八十八カ所の中で異色と言われる理由が、よくわかりました。他の札所が「地域の信仰を守る寺」であるとすれば、鎌八幡は「人の業と祈りを一身に引き受ける場所」なのです。【ひとことアドバイス】 境内は全域撮影禁止です。カメラもスマートフォンもしまって参拝しましょう。信仰の場であることを忘れずに。 他の参拝者の絵馬や祈願の内容は絶対に覗き見ないようにしましょう。切実な祈りがそこにあります。 観光気分ではなく、静かな気持ちで訪れることをおすすめします。それだけで、この場所の霊気がまったく違って感じられます。 第十四番・六大院からは道ひとつ隔てただけです。しかし気持ちの切り替えをしてから入ることをおすすめします。 契沖と日本の国文学の歴史に関心がある方には、参拝前に契沖の業績を少し調べておくと、この場所の二重の深みが感じられます。但し、契沖の墓は一般には公開されていません。