通算No.119 法廷での証言


”テキスト:使徒24:1 五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えた。


2 パウロが呼び出されると、テルトロが訴えを始めてこう言った。「ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下のご配慮で、この国の改革が進行しております。


3 その事実をあらゆる面において、また至る所で認めて、私たちは心から感謝しております。


4 さて、あまりご迷惑をおかけしないように、ごく手短に申し上げますから、ご寛容をもってお聞きくださるようお願いいたします。


5 この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。


6 この男は宮さえもけがそうとしましたので、私たちは彼を捕えました。


7 [本節欠如] 


8 閣下ご自身で、これらすべてのことについて彼をお調べくださいますなら、私たちが彼を訴えております事がらを、おわかりになっていただけるはずです。 


9 ユダヤ人たちも、この訴えに同調し、全くそのとおりだと言った。


10 そのとき、総督がパウロに、話すようにと合図したので、パウロはこう答えた。「閣下が多年 
に渡り、この民の裁判をつかさどる方であることを存じておりますので、私は喜んで弁明いたしま 
す。


11 お調べになればわかることですが、私が礼拝のためにエルサレムに上って来てから、まだ十二日しかたっておりません。 


12 そして、宮でも会堂でも、また市内でも、私がだれかと論争したり、群衆を騒がせたりするの 
を見た者はありません。 


13 いま私を訴えていることについて、彼らは証拠をあげることができないはずです。 
 

14 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。 


15 また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。 


16 そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。”


本日は「法廷での証言」という題でパウロの法廷における証言から学んでいきたいと思います。 

聖書を読むとあちこちに終末の日には主の弟子たちが、迫害されること、また議会、法廷に引かれていくことが書いてあります。またその時には、”話すべきことは、そのとき聖霊により示される”ことが書いてあります。以下の通りです。


”マタイ10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。 


18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。 


19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。 


20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。 

彼等は終末の日に、主の弟子であるがゆえに、また聖霊の声に従った油注がれた者たちであるゆえに、カルト、セクトという非難を受けるようになります。さて、これらの終末の日に議会に引き渡される人々の型となるような出来事が新約の記述にいくつかあります。この使徒行伝の記述のテキストもそうです。ここから終末の時に関する学びをしたいと思います。順に見ていきます。



”1 五日の後、大祭司アナニヤは、数人の長老およびテルトロという弁護士といっしょに下って来て、パウロを総督に訴えた。”


この裁判はカイザリヤで行われます。カイザリヤはローマ皇帝カエサルの名が含まれたことばです。またペリクスはローマの総督です。ここで、大祭司が登場します。彼は長老と一緒に弁護士を雇い、ローマの総督の法廷で、自分たちの同族であり、同じ聖書を読み、同じ神を信じているパウロを死刑にしようとして訴えているのです。このことは確かに終末の日に起きることの型ではないかと私は思っています。終末の日には確かに聖書のあちこちに書かれているように、兄弟が兄弟を訴える日が来るのです。しかもその兄弟間の争いを異邦人(未信者)の法廷に持ちだし、弁護士を雇い、訴える日が来るのです。そして、訴える側は恐らくキリスト教会の権力者、代表者達になるでしょう。


”5 この男は、まるでペストのような存在で、”

主につく油注がれた者達をペストやカルトのように思わせる世界的な世論、動きがこれから、出てくるでしょう。いえ、正確にはもう始まっています。いずれ、世界の誰もが知らず知らずのうちに、そのような考えに慣らされ、同調してくるのです。


”世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり”

世界中のキリスト教会がこのカルト、セクトの問題の是非で大きな騒ぎになる日がくるでしょう。

”ナザレ人という一派(セクトーKJV)の首領でございます。”

カリスマ的なキリスト教はセクト、カルトであるという非難が起こるのでしょう。ナザレとは”守られたもの”ということばです。彼等は終末の苦難、困難から守られます。


”9 ユダヤ人たちも、この訴えに同調し、全くそのとおりだと言った。”

キリスト教会が一致結束してこのセクト、カルトを非難、攻撃する日がきます。


”13 いま私を訴えていることについて、彼らは証拠をあげることができないはずです。”

しかし、その時は油注がれた者達にとっては、証の時になります。


”14 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。”

その日、油注がれた者達が主に仕える道は異端と呼ばれるでしょう。その異端をやめて、健全なキリスト教に戻れとみなが非難するのでしょう。

”私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。 


15 また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。”

パウロにしても彼を訴えるユダヤ人にしてもその神への基本的な教理は同じです。終末の日にも訴える正統的なキリスト教徒も、訴えられる”異端”の油注がれた者達も,その基本的な教理は同じなのです。しかし、その結末は天地程にも異なります。一つは殉教し、他方は彼等を死に至らせた神の民であり、世の終りに裁きをうけます。


終末における主のみこころを行っていきたいと思います。


ー以上ー