通算No.113 真理をはばむ


テキスト:”ローマ人への手紙 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 


17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。 


18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 


19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 


20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 


21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 


22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 


23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 


24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 


25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。”


本日は”真理をはばむ”という題でメッセージしたいと思います。テキストのロマ書にこのことばが書かれています。このことばは、黙示録を学ぶ上で大きな鍵となることばです。これを見ていきたいと思います。



テキストに沿って学んでいきたいと思います。

”16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。”

ここで福音の対象となる2種類の人々が書かれています。それは以下の人々です。 

1) ユダヤ人 
2) ギリシャ人

福音の対象が1種類ではなく、2種類の人々であるとはっきりと認識することはとても大事です。なぜなら、この節以降に書かれていることばはみなこの2種類の人々あてに書かれているからです。


”17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。”

ここでは、信仰のことが書かれています。この対象も2種類の人々です。ギリシャ人、すなわち異邦人のみならず、ユダヤ人、すなわち聖書を読み、神を知っているという人々にとっても義は信仰によるのです。

”18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。”

さて、ここで突然”神の怒りが天から啓示されている”と書かれています。ここで神は誰に対して怒りを啓示しているのでしょうか。それを考えてみましょう。普通に読めば、ギリシャ人、すなわち異邦人に対して怒りを啓示しているように見えます。

しかし、もう一つのことがあります。それは、たとえで書かれてあり、また隠された表現なのでわかりずらいのですが、しかし、確かに語っていることがあります。



それは、ユダヤ人すなわち、神の民への神の怒りです。福音の真理はユダヤ人にもギリシャ人にも開かれています。しかし、その真理をはばむ働きがあるなら、それがユダヤ人であってもギリシャ人であっても、神の怒りは天から啓示されているのです。ユダヤ人が真理をはばむなら、彼等にも神の怒りが天から啓示されているのです。また、ユダヤ人はクリスチャンの型です。ユダヤ人、クリスチャン、どちらも、神を知り、聖書を持つ人々なのです。ですから、我々クリスチャンの中に神の真理をはばむ行いがあるなら、やはりそれに対して神の怒りが天から啓示されているのです。

ここで、”真理をはばむ”と訳されていることばは以下の箇所で”手に入れる”と訳されたことばと同じことばです。



”マタイの福音書 21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』”

ですから、この節はこのようにも訳せます。

”18 というのは、不義をもって真理を”手に入れている”人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。”

ここでいわんとしていることは、こういうことです。神の真理をあずかる立場の人々は正しく真理を取扱い、民に正しく真理を伝えねばなりません。しかし、現実にはそうではない、その立場の人々が不義をもって、真理をはばんでいる、また不敬虔があり、不正がある、そのことに対して神の怒りが表わされようとしているということです。



続く