続き


ですから、新約聖書ではこのように主は警告しています。

”マタイ23:8ー10 
8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。 


9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひと
り、すなわち天にいます父だけだからです。 


10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。”

逆に人を王とすることはみこころではないことを知るべきです。このように書かれています。



”1サム12:17、18 今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」 

 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。”

”雷”は黙示禄の中のさばきの中で書かれています。私たちが人の王を崇拝する時、我々は裁かれることを知らなければなりません。

また、聖書は神の民の間に立てられる王についてもう一つのことを語っています。それは、王が真の王を殺したり、真の神の働きを妨害することがあるということです。例えば、イスラエルに何代も立てられた王の中で最もキリストの姿に近い、また予表として表された王はダビデと思われます。しかし、そのダビデは、民がサムエルに願って与えられた最初の王サウルにより大きな苦しみにあいます。イスラエルのどこにも住めないように追いかけられ、命をねらわれるのです。 またサウルは主の祭司を何十人も殺してしまいました。まさに”自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫”ぶような事態になったのです。



サウルは王の典型的な性格を表すものです。彼は神により、選ばれました。また、神により油を注がれたのです。現在でいえば、聖霊の油注ぎがあるのです。しかし、結果として彼は神のみこころを破りました。ですから、私たちが人を王としないという時、その王が神の油注ぎがあるかないかという問題ではないのです。ただ、人が見えない主の代わりに王となる時、それは神のみこころではないのです。

それから、もう一つのことがあります。多くの王が立ったイスラエルの国は最終的にアッシリア、そしてユダはバビロンに捕囚され、そして滅んでしまいました。その後、バビロンから戻った人達は新しいエルサレム、宮を再建します。これらは黙示録に書かれている新エルサレム、宮の型であり、この働きは神のみこころにかなっています。

そして、それらについて記してあるエズラ、ネヘミヤ、ゼカリヤ等の記事を見る時、彼等の間に誰も王が立てられなかったことがわかります。例えば、ネヘミヤは彼の敵により、お前は王となろうとしていると非難されましたが、彼はそれを否定しています。実際、彼は王にはなりませんでした。これらのことからも神の人の王に対するみこころを見ることができます。



またキリストの時代を見て下さい。幼子キリストの命を狙ったのは神の民の王、ヘロデです。また預言者バプテスマのヨハネの首もヘロデ王により切り落とされたのです。また、12使徒の最初の殉教者ヤコブも彼の手で殺されました。

”使徒の働き 12:1、2そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。”

そして真の王であるキリストは彼の下で十字架につけられたのです。

”マタイの福音書 27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。” これらのことは、終末への預言でもあります。人の王が真の王である主イエスを除き、十字架につけてしまうということは終末にもおきてきます。以下のように書かれています。

”ヨハネの黙示録 11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。”



”十字架につける”という動詞はaoristです。 

また大きな都ということばは以下のことばと同じです。

”ヨハネの黙示録 17:18 あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」”

この大きな都はバビロンです。エルサレムは地理的にいっても決して大きな都ではありません。ですから、聖霊なる主はバビロンにおいて除外され、十字架につけられる、そのことを語っていると思われます。

ですから、私たちは神の民の王に関する神からの警告を正しくとらえ、イエスのみを王として、正しく主のみこころを行いたいと思います。


ー以上ー