通算 No.20 聖書の真理はたとえの中で明かされる
テキスト:使徒15:1ー5
”さてある人達がユダヤから下って来て、兄弟たちに’モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ 、あなたがたは救われない’と教えていた。そしてパウロやバルナバと彼等の間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバとその仲間のうちのいく人かがこの問題について使途たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。..しかしパリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、’異邦人にも割礼を受けさせ、またモーセの律法を守ることを命じるべきである’といった。”
聖書を読む時、一つ大事なことがあります。それは、聖書の中に書かれているたとえを理解すること、また神が聖書の中に隠された真理を読み取ることです。イエスが”このたとえを理解できないのですか。そんなことで、どうしてたとえの理解ができましょう。”と叱責したように、たとえを理解することが大事です。また。”隠されているのは明らかにされるため”とあるように、聖書の隠された真理は無意味に隠されているのではなく、見い出されることを前提として隠されているのです。
私たちが正しくたとえを理解しないで聖書を読んでいく時、逆に神のみこころとぶつかったり、みこころをとどめてしまったりします。このテキストの箇所はまさにその箇所です。アンテオケの教会へユダヤから下ってきた人達がここに書かれています。この人達、また5節のパリサイ人出身の人達も弟子とは書かれていないことは象徴的です。”主は弟子達にたとえをあかされた”と書かれているからです。
彼等は聖書を読み、そして聖書のことばに従って割礼を異邦人のクリスチャンにも文字どおり行うことを主張したのです。しかし、パウロとバルナバはそれに反対し、その結果エルサレムでこの問題に関して会議が持たれることになりました。
この”信仰か律法か”という問題は今のクリスチャンにとっても大きな問題なので、このことで会議が開かれたのは妥当でしょう。
しかし、私はこの記事を読む時、別の一面に心が向けられます。この論争はまさしくたとえを理解する人と理解しない人との論争ではないかと思うのです。
元パリサイ人の信者達の主張は例えばこのようなものだったかもしれません。”聖書ははっきりと何度も何度も繰り返して神に受け入れられるためには律法を守ること、また異邦人でも割礼をうけるべきこと、そしてそれにより義とされることを述べている。
出エジプト記においてもしかり、レビ記しかり、民数記しかりではないか。何故、このように明確に何度も何度も神がはっきりと聖書の中で記述していることをないがしろにし、異邦人に神の律法を守らせないのか。確かに旧約聖書には律法について多くのページが割かれており、神の民は律法とともに歩み、それを守っていたのです。聖書が変更されることのない神のことばなら、たとえ異邦人から信者になった者でもこれを守るべきだという主張には一理も二理もあります。
私たちがこの場に同席し、彼等の言い分を聞き、そして多くの聖書の律法の記述を見るなら、つい同調したくなるかもしれません。
これに対してパウロはどのように反論しているでしょうか。パウロの主張は使途行伝には書いてありません。
それを見ると、パウロの反論も当然聖書を基盤としたものです。ですから、同じテーマに関して同じ聖書を読みながら、全く異なる結論に至ることに注目してください。
彼の反論は元パリサイ人達のものとは異なり、聖書の文字通りの解釈というより、たとえを理解した、隠された真理を読みとった反論になっています。
まず、彼はアブラハムに関して聖書が”その信仰を義とした”と記した箇所を読み取りました。そして、この”信仰による義認”ということが聖書の大原則であることを読みとったのです。すると律法は何なのか、これをどうとらえるのか。この問題に関して彼は聖書を読み進んで行きます。
そして、律法に関してはこれは神ご自身でなく、みつかいを通してあたえられていることを読み取ります。神は不変の方ですが、みつかいは決して不変の存在ではありません。ですから、それを通して、律法が一時的なものであることを示していることに気付くのです。聖書はそのように意図してみつかいを通して律法が与えられたことを記しており、パウロは正しくその神の意図を読みとったのです。
このエルサレムにおける会議の議題、信仰か律法かとの問題はキリスト教会にとってとても大事なものでした。しかし、この大原則、信仰による義認という真理は表面的に聖書を読んでも決して出てこない真理だったということに目を止めてください。たとえを理解する、隠されたことを見い出すという態度がなければ、決して見い出せない真理だったのです。隠れたことを見い出す、あらわす、これが掲示ということばの原意です。
普通に文字どおり聖書を読むなら、素直に聖書を読むならユダヤ人達のいうことに分があるのです。実際、今の私達でも先入観なしに普通に聖書を読んでいくなら彼等のような結論に至るかもしれません。
反対にパウロの言っていることは悪くいえばこじつけにさえ聞こえます。”そういえばよく読めば確かにアブラハムの信仰を義と認めたということばが創世記に1回ポツンと出てくるけれど、こんな一文を持って延々と聖書の中に記述されている律法を守らないでよいということになるのだろうか。”
私たちだったら、どちらに軍配をあげるでしょう。しかし、神の前の真実、結論は何だったのでしょう。事実は神のみこころはパウロが主張するとおりであり、実際神は聖書をそのように書かれていたのです。聖書はパウロのいうように読むべきだったのです。
元パリサイ人達の聖書の文字には忠実ではあるが、しかし聖書の本質ーたとえを理解していない解釈は間違っており、神の正しいみこころから外れていたのです。
全くのどんでん返しのような結論ですが、これは神の知恵の中で聖書の中に隠されていた真理だったのです。 私たちはこの例をもって、聖書の性格を知らなければなりません。聖書の性格はたとえの書であり、隠された書なのです。
表面的にはっきりと書かれたいくつものみことばがあります。しかし、それとともに神の国の奥義は隠された形で書かれているのです。
そしてそれはパウロのようなたとえを理解しようと求めている弟子達に開かれてくるのです。この元パリサイ人達に弟子ということばがあてられていないのはまことに象徴的です。”彼等(弟子でないもの)にはみくにの奥義を知ることが許されていないのです。”
この会議で、たとえを理解しない彼等は声高に主張したかもしれません。”あなた方はこんなにはっきりと書いてある聖書のことばを守らないのか、聖書は繰り返し、繰り返し、割礼のこと、律法のことをいっているではないか。”彼等は自分が間違っているとはつゆも思わなかったのです。
しかし、事実彼等は間違えていたのです。もしこのエルサレムの会議で彼等の主張が受け入れられていたなら、我々クリスチャンは今でもモーセの律法のくびきの下にいたかもしれないことを覚えてください。
たとえを理解する人がいない時、神の正しい真理が隠されてしまうのです。多くの人は何故、神は聖書をもう少しわかりやすい形、誰が読んでも誤解しない形で記さなかったのだろうというかもしれません。
しかし、この聖書は神の知恵、方法に基づいて書かれているので、人間的な考えで文句をいうわけにもいきません。神の知恵とは何でしょう。それはたとえにより、弟子にみくにの奥義を知らせ、他の人はたとえの外に置くことです。 神はこのパウロのような弟子がたとえを正しく理解することを望み、またそうでない人までみくにの奥義を知ることは望んでいないのです。
聖書の中には多くのたとえ、隠された真理がありますが、神のみこころはそれらを求める弟子に開くことです。求める弟子には開かれるという意味では聖霊のたまものに似ているかもしれません。私たちがするべきことはしもべとして、神が聖書を書かれた方法でこの書を読み、神の隠されたみこころを正しくとらえていくことだけです。決して”見るには見るが理解しない”ということではいけません。
さて、これは教会時代の最初のエルサレム会議の話です。しかし、今でも私たちに語りかけてくることがあります。
今でもたとえの書である、聖書は私たちの前にあります。しかし、たとえの理解を求め、開かれていく人とそうでない人とがいるのです。そして、神はこの書から今でも多くのことを語っています。私たちは主の弟子として正しく聖書のたとえを理解していきたいとおもいます。
ー以上ー