本文テキスト


テキスト:使徒13:26~27


”兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さ んの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。”


 本日は教えを吟味するという題でメッセージします。

初臨のときのキリストと人々


 この箇所を読む時、エルサレムに住む旧約聖書を読み、神を信じている人達、また神の民の指導者達は、毎週安息日ごとに集会に集い、預言者にきき、正しい神のことばを朗読しながら、しかし、その聖書が語っておられるまさにその人-キリストを受け入れることができなかったということを見ます。

 これは今の時代の私達にも語りかけがあることばです。何故なら、私たちも毎週、教会の集会に集い、説教者を通して、神の言を受けているからです。

 彼等は初降臨のキリストを正しく受け入れることができませんでした。私達は彼等の教訓を他人ごとのように考えず、その失敗から学び、再臨のキリストを正しく受けていきたいものです。

 彼等の失敗とはなんでしょうか。当時のエルサレムは神の民であるユダヤ人の首都であり、そこには神の大祭司がおり、パリサイ人、律法学者達がいました。彼等は神の教えに熱心であり、聖書もよく読んでいました。

主にあってみことばを正しく理解する


 彼等は神の民の中心であり、今のキリスト教会でいえば、キリスト教会の指導者達にあたります。そして、その中心である人達が間違えたので す。

 彼等に与えられた神のみことばは純粋なものでしたが、彼等はそれに多くの自分達の言い伝えを付け加え,それにより、神の言葉を無効にしたりしていたのです。神の教えは変形してしまったのです。

 キリストは神の子として、見えない神御自身を代表しています。 その方が彼等の前に現われた時、キリストと彼等の間には、多くの論争、迫害がありました。それはとりもなおさず、長い年月の間に彼等といける神との間に大 きなギャップがあいてしまったことを示すものです。

 彼等が安息日ごとに毎週受けていた神の言葉には問題はありません。問題はそのみことばを正しく主にあって理解できるかど うかです。それによって天地程も異なる結果の違いとなるのです。即ち命の君を受け入れるか、逆に迫害して裁かれるかです。

 私たちが正しく主の語られたみことばを受けられるかどうかは私たちの歩みを決定します。みことばは正しくキリストについて預言していたのですが、彼等はそれを読み取ることができなかったのです。


受け入れやすいことが正しいとは限らない


 彼等のことを学ぶとき、ひとつ教えられることは多くの人の理解していることが必ずしも正しいとは限らないということです。エルサレムの祭司達、パリサイ人、律法学者は共通の認識を持っていました。すなわち、イエスは 決してキリストではないという認識です。そして彼等の認識は間違っていたのです。人数は多く、そしてみな一致した考えを持っていたが、間違えてしまったのです。即ち、彼等の公式の解釈、理解は間違っていたのです。

 聖書の原則として、多数の人がいうことが必ずしも正しいとは限らないということがいえるかもしれません。例えば、ミカヤ一人に対して、40 0人もの預言者がいましたが、皆等しく惑わす霊に惑わされていました(-ノ歴1 8章)。またエリヤ一人に対して、450人のバアルの預言者がいましたが、みな間違えていたのです。

 何故主の預言者は少なく、偽りの預言葉者の数が圧倒的に多いのでしょう。それは偽りの預言者、教師のことばは人々の心に受け入れられやすいからです。それで、人に受けいられるからといって必ずしも神のみこころの預言 者、また教師とは限らないということがいえます。(旧約の預言者は新約の教師 に相当すると思われます--ノペテロ2:1)

 赤信号みんなでわたればこわくないということばがありますが、みながいっているからといって必ずしも正しいとはいえないことがあります。

 多くの人の理解に従っていったが、しかしその教えが間違ってい たということもありえるのです。少なくとも初降臨の時は多くの人は間違ってい たのです。

 教えは主にあって吟味すること


 ですから、どんなメッセンジャーでも教えでも、また本でも必ず吟味することが大事です。
 たとえ、注解書でも吟味することが必要です。人の考え、誤りがはいる可能性があるからです。
 例えば、ルターはヤコブ書をわらの書といっています。これは人間的なことばです。吟味して正しければ従うのです。

 また、キリスト教会の中にも人の言い伝えにすぎないものが多くはいっています。例えば、イースター、クリスマス。これらは良いことのようですが、人の言い伝えにすぎません。クリスマスといえば、サンタクロースです が、これは実在しない、おとぎばなしです。キリストの降誕と一緒にサンタがで てくればキリストの話もおとぎばなしに過ぎないと思われないでしょうか。言い伝えは神のことばを無効にするのです。

 初降臨の時のイエスのことから学べることは、神は必ずしも我々のセオリー通りにことを進めるとは限らないということです。少なくとも初降臨の時には多くの人が想像していた聖書の理解とはちがった形でこられました。彼 等は王として来るキリストという先入観があったのですが、その通りではなかったのです。

 聖書は私たちの常識、先入観を裏切ることがよくあります。今、 私たちはキリストの後の時代にいます。しかしもし我々が律法学者、パリサイ人の時代にいたとして、旧約聖書だけで、正しくキリストの初降臨を読み取れるか どうかは疑問です。なぜなら多くの人がまちがえたからです。

 聖書はそのような書なのです。

 再臨についても、もしかすると我々の理解を裏切るようなことが あるかもしれません。例えば、日本では多くの人が大きな根拠もなく患難前携挙説です。実際はそうかもしれませんが、そうとは限らないのです。ですから、よ く主にあって読みとらねばならないのです。

 聖書には私たちの歩み、将来に関する全てのことがしるされてい ます。しかし、それを正しく読み取ることは主に真剣に求めて初めてあたえられ ることです。この時代、さらに正しく読み込み主のみこころを行っていきたいと 思います。