1.はじめに
先週、新型感染ウィルスに感染してしまいました。最初は喉に違和感があるぐらいだったのですが、次第に発熱、咳、喉のつまり感、倦怠感、頭痛といった症状が出始め、病院に行ったところ陽性の診断がおりました。
Covid19はもう収束したような気持ちでいたので、まさか今さら自分がかかるとは正直考えていなかったため驚きました。まだこの感染症が現在でも大勢の人たちを苦しめていることを改めて理解することができました。
食欲も落ちており、食べるって何なんだろうという単純な疑問が湧いてきました。そこで食べることに関しての動画を探している中で、今日のお話につながるテーマを見つけることができました。
さて、味覚がまだもどらないという後遺症はありますが、最後の症状の咳もだいぶ落ち着きましたので、療養中に読んだ本や拝見した動画やSNSなどで気づいたことをテーマに本日も記事を書かさせていただきます。
2.日本食が教えてくれたこと
リリー・コリンズさんというモデルであり女優である世界的にも著名な方がいらっしゃいます。この方が摂食障害に苦しまれておられたそうですが、日本食と出会うことで摂食障害を乗り越えるきっかけを得たという内容の動画を観ることができました。
日本食を海外の方が絶賛されるニュースはしばしば目にしますが、海外の食事にはない魅力が日本食にはあるのでしょうか。海外の方に好まれる傾向のあるお寿司やてんぷらなどは江戸時代までさかのぼりますので、庶民の大衆文化が爛熟した時期の食文化が21世紀の海外の方に注目されているという現象は、大変興味深くておもしろいですね。
コリンズさんの動画では、コリンズさんがお茶漬けに魅了されるというエピソードがでてきました。最初は「ライスにティーをかけるなんて変わった食事だね」と感じられたそうですが、実際お茶漬け専門店に行かれ、お茶漬けの世界に魅了されたそうです。
ハリー・ポッターシリーズのハーマイオニー役で有名なエマ・ワトソンさんも、おにぎりがお気に入りだそうです。
コリンズさんやエマさんが、素朴な日本食に魅了される理由の一つに、お茶漬けとおにぎりのレパートリーの豊富さをあげることができるかもしれません。お米+αという似たような食べ物のジャンルなのに、いれる食材によって様々な味を提供することを、どちらのお料理も実現しています。この様々な選択肢がある和食の幅の広さが、日本人だけではなく世界中の人たちの人生の豊かさに寄与している現実を知るたびに、日本人の先人達が築いてきた食文化に、蛹などは誇りを抱いてしまいます。
蛹は静養中、こうした和食文化の持つ選択肢の多さ、もっと言えば多様さに開かれている素晴らしさとこれを享受することによって得られている人生における食の豊かさを再認識することを通して、別の気づきも得ることができました。
3.多様性とは何か。
お茶漬けやおにぎりが示すように、多様なものとは本来人生を豊かにしたり、身体的・精神的な健全さを手にするために、なくなてならないようなエッセンスのようにうかがえます。
一方で昨今、多様性という言葉が盛んに用いられるようになってきました。蛹自身もこのブログで多様性という言葉を大切な言葉として用いてきました。多様性という言葉との出会いは、学生時代にまでさかのぼります。蛹が自然科学で学んできた多様性とは、例えば様々な生存戦略を説明するものであったり、進化の過程で得た特性などによって生み出された「機能」や「価値」の素晴らしさを理解するための枠組みでもありました。そして現在、教育的な立場においては若い人たちの様々な可能性や特性を理解する枠組みとして用いるようになりました。蛹にとって多様性とは、この複雑な現実を理解するための欠かすことのできない重要な「文化的な補助器具」のようなものだと言えます。
一方で、多様性という言葉の濫用もずっと気になっていました。この多様性という言葉が悪用されているのではないかという懸念です。社会にはまだ不正義や不条理が多いことは蛹も賛同いたします。ですが自分達の権益を拡大するために、この多様性という言葉を御旗にして活動し、自分たちとは異なる意見の方々を圧迫されている方がおられることを知ると、「多様性=社会正義」という単純な見取り図では、かえって現実を不適切に扱ってしまうということも理解できるようにもなってきました。
多様性を標ぼうし、自分たちの権益の拡大をめざす方達が陥りやすい罠がございます。この罠は数学の世界では広く知られているパラドックスです。「ラッセルのパラドックス」とよばれるものです。よくつかわれる例でご説明いたします。
ある村に嘘つきがいました。その嘘つきが言います。
命題:嘘つき「私は嘘はつきません。」
さて、この嘘つきの人が言っていることは嘘なのか本当なのか考えてみてください。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、もしこの発言が本当だとしたら、嘘つきが本当のことを言っているという矛盾が生じます。他方、もしこの発言が嘘だったら、「嘘はつきませんが嘘」(二重否定)=「本当のことしかいいません」となり、これも嘘をついているはずの嘘つきが嘘をついていないということになり矛盾となります。
ラッセルのパラドックスが示していることは、否定する命題を自分自身にあてはめようとすると論理的な矛盾が生じるという鋭い指摘です。実は、多様性を濫用している方達はこの矛盾に陥っているのです。
なぜそのように言えるかというと
命題A「多様性は大切だから自分とは異なる人の意見も尊重しよう。」という命題を考えてみましょう。そしてもう一つ
命題B「多様性は大切ではない」
この二つの命題を並べた時、対立するように見えます。ですが
命題Bは、命題Aからみて「自分とは異なる人の意見」になるので、命題Aに従うなら「尊重しよう」とならなければなりません。そうしないと命題Aの論理性が保てません。ですから、「多様性を大切にする」という命題の中には「多様性を大切にしない」という考えも含めないといけないわけです。どうでしょうか?ラッセルのパラドックスが成り立っていませんか?
簡単にまとめると
①命題A「多様性が大切」⊃命題B「多様性が大切ではない」
かつ
②命題A「多様性が大切」≠命題B「多様性は大切ではない」
多様性の議論を通して、このようなことを指摘することができるんです。
真に多様性があると言うためには、論理的にラッセルパラドックスの自己矛盾におちいらないといけないんです。ですから、多様性を理由に自分の主張を社会に訴える方達は、自分達の主張に賛同しない人たちも認める「多様性」を持つことが求めらるんです。多様性を訴えておきながら、自分の主張と反対のことをいう人たちの「多様性」を認めないことは、かえって自分達の論理的基盤を失うことを意味しているのです。そしてこの論理構造の矛盾を理解できるからこそ、自分とは異なる人たちへの寛容さを人は持つことができるのではないでしょうか。お互い論理的に完璧でありえない。だから相手の足りていない点だけでなく自分にも足りていない部分があることを認めあうことにより、人は「自分とは異なる他者」を受け入れる共通項を共に掲げ、相手の非ばかりに注目しないという態度の奥の深さに価値を見いだせれるのではないでしょうか。そして、このような寛容さこそ、真の多様性を実現するのではないかと蛹は考えております。
4.ヴァナディールでの多様性とは
ヴァナディールでの多様性というものを考えた時、様々な水準で考えることができます。全てあげることはできないので一部だけ取り出すと
①種族
②性別
③所属国
④使用する言語
⑤ジョブ
⑥装備
⑦ギル稼ぎの仕方
⑧楽しみ方
⑨コミュニティの所属の有無 etc…
と選択を求められる場面の数だけ、多様性を表現する場所がヴァナディールの世界にもあふれています。
ある記事で蛹はジョブ選択にまつわる問題を目的合理性とシステム合理性の問題としてあつかいましたが(以下、該当記事)
私達には選択肢が用意されています。ヴァナディールはオンラインゲームの世界ですから、ゲームという枠組みを守るため選択肢はわかりやすく視覚化されていますが、人生はこの選択肢が常にわかりやすい形で提示されるわけではないことは、これまで人生を生きてこられた方なら共感していただけるのではないでしょうか。
しっかりとした形で選択肢がみえなくても、自分にとってより好ましい選択ができる判断力、経験などを育んでいきたいですね。そしてその選択がより好ましいものであったかを評価する基準の一つとして、多様性を利用できたら素敵ですね。
「今田美桜さん2回目の練習」
追記
・漫画、アニメ、ゲームなどもそうですが、日本から発信された文化が世界の人の心を揺さぶり、人生観に大きな影響をあたえたり、より好ましい人生を歩むのを手助けしたりするエピソードやニュースに接するたびに、世界での日本文化と日本人が果たさなくてはいけない役割のようなものを感じざる得ません。
・追記を挿入。(2024年4月16日)
・記事編集。(2024年4月16日)