連戦連敗??

前回の記事を知人が読んで、こう言いました。

 

「山中鹿介は失敗してばっかりだな。山中鹿介って弱かったの?」

 

…うーん、確かに、出雲侵攻で失敗、因幡の戦いで失敗、播磨上月城で失敗…って、失敗しか書いてないから…

 

結果が全て、といわれれば最終的には負け続きだから、そういわれても仕方がないかもしれないけれど、そんな負けてばっかりの弱い人だったら、流石に歴史に名前は残りません。

(いや、案外負けても負けても生き残る、名物男として有名になるのかもしれないけど…)

 

そこで、山中鹿介のかっこいいエピソードをいくつか書きましょう。

 

  一騎討ちでは無類の強さ

戦はひとりで戦うものではないので、1人だけ強くてもそれだけで戦に勝つことができるものではありませんが、それでも有名な武将を打ち倒すことができれば味方の士気を高めて有利に導くこともあるので、全く意味のないことでもありません。

 

山中鹿介は武勇に優れ、生涯で何度も一騎討ちで敵を破り、味方の士気を鼓舞して勇名を馳せているのです。

 

まず、16歳のとき、主君・尼子義久に随行して伯耆尾高城攻めた際、因伯に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取ります。

続いて毛利氏が月山富田城に攻め寄せた際、敵方の品川大膳将員を一騎討ちで破りました。

その後、織田信長麾下として松永久秀の大和信貴山城を攻めた際には、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っています。

 

最初の2回の一騎討ちは、尼子勢が劣勢に転じていた頃の戦での一騎討ちです。

特に品川大膳との一騎討ちは、本拠地富田城に攻め寄せられ、尼子勢がともすれば意気消沈、崩壊の危機にあった時のものです。

鹿介の一騎討ちでの勝利によって、尼子勢の士気は回復し、戦い続けることができたのです。

また、河合将監との一騎討ちは、尼子勢が織田軍に組み込まれた際のものであり、ここで存在感を示すことにより、織田家中での尼子勢の立場を有利にした、と言えるかもしれません。

 

  「退き口」での活躍

山中鹿介の活躍は、一騎討ちでの活躍のような、一騎駆けの武者としての活躍だけではありません。

戦場で一番難しいとされる、退却戦での指揮でも卓越したものがあったのです。見出しの「退き口」とは、この退却戦のことです。

 

毛利氏が尼子氏の支城・白鹿城を攻めたとき、鹿介は苦戦する白鹿城へ、尼子義久の弟•倫久を大将とする援軍に従軍しました。

この合戦は、結局尼子軍の敗北で終わりますが、鹿介ほか若手の将たちを中心とする富田衆は退却する尼子軍の殿軍を務めます。鹿介ら殿軍は、追撃する毛利軍を七度撃退し、鹿介個人としても、七人の将の首級を挙げるなどして活躍したのです。

 

その後、尼子氏は一旦滅亡し、尼子勝久を大将とした再興軍が出雲に攻め寄せますが、尼子再興軍は布部山合戦で毛利軍に大敗を喫します。

この時にも鹿介は、鹿介の叔父とされる武将•立原久綱と共に殿軍を務め、尼子軍はその時本拠地としていた末次城に撤退することができました。

 

  良き男

このように、鹿介は負けっぱなしの男ではありません。

最初の再興尼子軍の出雲侵攻の際も、僅かの期間に16城を落とし、二度目の因幡の戦いの際も10日で15の城を落とすなど、実戦指揮官としても優れた才能を発揮しています。

 

そんな鹿介なので、織田信長と対面した際にも「良き男」と高評価で評され、「四十里鹿毛」という名馬を与えられたといわれています。

 

宿願の尼子家再興こそかないませんでしたが、けつして負けっぱなしのダメダメな将ではなかった、ということは言えると思います。