系図史料


山中鹿介は尼子氏の重臣ですが、そもそもどのような家柄の武将なのでしょうか?

実は、鹿介の出自どころか父が誰であったかすら、一次史料もないため、明確には分かっていません。


一次史料とは、たとえば大名が部下の武将に下した命令書であったり、ほかの大名へ宛てた手紙であったりといった、その時代のナマの文書のことです。


対して、覚書などは後年に書かれたものなので、記憶違いや根も葉もない噂や伝聞を事実として書いていたり、制作目的によっては意図して事実と違う事を書いていたりするため、そのまま信じる事はできません。

家系図を記した系図史料も同様です。

したがってこれら後年の文書を史料として見るためには、その成立過程や性格を十分に考慮して検討しなければなりません。


  山中系図


では、山中鹿介の家系について後世の文書がないかというと、実ははいくつか系図史料があります。


そのうちよく鹿介の家系を紹介するさいに参考にされるのが「山中系図」と呼ばれる系図史料です。

ひとまずこの系図史料では鹿介の山中家がどういう家であったと紹介されているのか、みていきましょう。


「山中系図」によれば、鹿介の山中家の祖は、尼子清貞の弟•幸久である、とされています。

つまり、山中氏は尼子氏の庶流であり、京極氏流佐々木氏、という事になります。


この「山中系図」の注記によれば、山中幸久は兄•清貞を討とうとして失敗、捉えられて幽閉され、55歳で死亡した事になっています。

しかしながら、こうした事件は一次史料にないため、事実であるかどうかは不明です。

それどころか、尼子氏の系図史料である「佐々木系図」には、幸久なる人物が存在しません。


系図史料は、存在した人物であってもときに省略されていたり、兄弟なのに親子として書かれていたりもするので、ほかの系図にないからそのまま「存在しない人物」と断じることはできませんが、より家格の高い家系を名乗る(仮冒する)事は良くあるので、この場合もその可能性があります。


閑話休題。話を戻しましょう。


初代幸久のあとは、二代幸満、三代満盛、と続きます。この満盛の注記には、尼子経久に従い塩冶掃部介を討つとあるので、軍記『雲陽軍実記』でいうところの山中勘兵衛勝重がこの満盛に比定できます。


そして、四代満幸の子が甚太郎幸高、そして甚次郎幸盛、すなわち鹿介幸盛です。

甚次郎幸盛は尼子氏の重臣・亀井家の養子となっていたとされますが、甚太郎幸高が病弱で廃嫡されたため、幸盛が山中家を継ぎ、鹿介幸盛を名乗ったのです。