第二次月山富田城の戦い

白鹿城が落とされ、いよいよ尼子氏は苦しくなりました。

永禄7年(1564年)には伯耆江美城が落城し、伯耆からの糧道も遮断された上に、美作の江美氏や牧氏、後藤氏といった尼子方所国人との連絡路も遮断されてしまいます。

こうして、事実上月山富田城は孤立してしまったのです。


毛利軍はこうして万全の体制を整えた上で、ついに永禄8年(1565年)、月山富田城を包囲しました。

毛利元就は富田城への総攻撃を開始しますが、尼子義久は弟・倫久、秀久とともに必死の抵抗を見せ、毛利軍の攻撃を押し返しました。


元就は、このまま攻撃を続けても損害が増えるだけだと判断し、兵糧攻めに切り替えます。

これに対し義久は外部との連絡路確保のために何度か出撃しましたが、毛利軍の包囲は厚く、成功にはいたりませんでした。


このため富田城内では徐々に兵糧が欠乏し、士気が衰えていきました。

山中鹿介が一騎討ちで毛利方の品川大膳を討ち取るなどして士気を鼓舞しましたが、それも一時のものでした。


やがて尼子氏累代の重臣の亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏などが次々と毛利軍に投降する事態となると、尼子勢は疑心暗鬼に陥ります。

そして永禄9年(1569年)1月には、義久が重臣•宇山飛騨守を謀反の疑いで誅殺するなどし、城内は混乱を極めました。


ここに至り、義久はもはや抗戦は無理であると判断、11月、ついに毛利氏への降伏を決意、富田城は開城します。富田城が陥落したことにより、出雲国内外で抵抗していた尼子方の城将達も、次々に毛利氏に下りました。


元就は義久ら3兄弟の自決を認めず、助命します。

こうして義久らは出雲の地をはなれ、安芸に幽閉されることとなりました。

こうして、大名としての尼子氏は滅亡したのです。


  尼子氏のその後

義久が安芸に幽閉されると、最後まで富田城に残った尼子の旧臣たちの多くは浪人となります。

山中鹿介、立原久綱らを中心としたこれらの浪人たちは京へのぼり、東福寺で僧となっていた尼子国久の孫(誠久の子)•勝久を還俗させて大将に据えると、永禄12年(1569)、海路出雲へ侵攻して真山城を拠点とすると、尼子家の再興を目指して戦います。


勝久らは一時出雲半国を制圧しますが、永禄13年(1570)2月、布部山の戦いで毛利軍に敗れて勢いを失い、結局京都へ撤退しています。

天正2年(1574年)には因幡の山名豊国を支援して毛利軍と戦いますが、これも失敗におわりました。


その後、勝久らは織田信長の傘下に入り、羽柴秀吉の中国攻めに加わります。

天正5年(1577年)、勝久らは播磨上月城を奪取してその城番になりましたが、翌天正6年(1578年)には毛利軍に上月城を包囲されます。

羽柴秀吉は上月城の救援を試みますが、後方の播磨三木城主•別所長治が織田軍に反旗を翻したため、上月城救援は断念せざるを得ない状況となってしまいました。


こうして上月城は孤立してしまったため、勝久は城兵の助命を条件に毛利氏へ降伏、切腹して果てました。

山中鹿介、立原久綱はひとまず助命されますが、鹿介は備中松山城へと護送される途中、毛利家臣の襲撃にあい、討ち取られてしまいます。

立原久綱は隙をみて脱走し、蜂須賀正勝の元にいた娘婿•福屋隆兼のもとへ逃れました。


一部羽柴秀吉の隊に残っていた尼子勢は、亀井茲矩に率いられ、のちに因幡鹿野3万8000石の大名となった茲矩の家臣となります(茲矩の子•政矩の代に、石見津和野4万3000石に加増)。


一方、安芸に幽閉されていた尼子義久は、天正17年(1589年)にようやく幽閉を解かれ、毛利氏の客将として安芸国志道に居館をかまえます。

義久は慶長15年(1610)年に死去しますが、義久の跡は甥(倫久の子)•元知が継ぎ、以後代々、幕末まで長州藩士として毛利家に仕えました。