今月1日に旅立った父に今晩は付き添い、明日はいよいよ最後のお別れとなる告別式です。

 私の家の本家筋は富山県ですが、父は東京生まれの東京育ち。東京の中野区に住んでいました。

 高度経済成長期に社会人となった父は大学時代の通学や社会人となって駆け出しだった頃の通勤には中野駅から中央線を利用していたことでしょう。

 国鉄高性能電車のパイオニア101系。
 101系はそれまで吊り掛け式の重々しいモーター音に茶色い車体という旧型国電のイメージを一新した平行カルダン方式の駆動方式とMT46型主電動機により静かな走行音と高い加速と減速を実現させ、後の在来線特急型電車や急行型電車、さらには新幹線車両の開発に発展する礎となった車両です。
 東京の中央線にカナリヤ色の明るい装いでデビュー、後に山手線のように駅間距離が比較的短い路線に適した103系へと発展、東京や大阪の通勤輸送に大きく貢献しました。
 101系は車体長20m、片側4箇所の両開きドアを初めて採用、このスタイルはその後登場する国鉄通勤型車両のみならず大都市近郊の大手私鉄車両のスタイル多くに影響を与えました。

 現在では見ることがありませんが、東京の国電と呼ばれていた5方面(中央・総武・山手・京浜東北・常磐の5路線)では混雑も酷くて、経済が右肩上がりだった頃にはホームからすし詰めの車内に乗客を押し込む「押し屋」と呼ばれる係員が鉄道学校の生徒さんなどが動員されて配置されていました。
新聞などではその混雑の酷さから「酷電」なんて書いていたものです。
 あまりにもぎゅうぎゅう詰めに乗っていたからドアガラスが割れるなんてことも私が社会人になる頃までは日常茶飯事でした。


 扉間の「田の字」型の窓も小田急電鉄の2600系以降の20m級大型車や東武鉄道の8000型、営団地下鉄の6000系などにも採用されました。

 連結面に取り付けられている銘板。
 上の画像の大井工場は国鉄からJR東日本となって下の画像の東京総合車両センターに組織改編により名称が変わっています。


 国鉄時代、東京の中央線、総武線、山手線との三角地帯となっている神田・御茶ノ水・秋葉原駅間で東京北鉄道管理局・東京南鉄道管理局・東京北鉄道管理局(秋葉原駅から東は千葉鉄道管理局)と分かれていました。西ミツの表記は東京西鉄道管理局三鷹電車区の電報略号で、三鷹電車区の所属車両であることを示しています。
 三鷹電車区は現在はJR東日本八王子支社三鷹車両センターとなっており、電略もミツとなっており、かつてオレンジ色の車両が配置されていましたが、現在では総武線(中央・総武線各駅停車)の黄色帯のE231系が配置されています。ちなみにかつての総武線は中野電車区と津田沼電車区配置でした。


 ボンネットスタイルの特急型電車も高度経済成長期の国鉄型車両を象徴する車両でした。

 20系寝台客車は「走るホテル」と称され、少年だった私の憧れでした。


 455系急行型電車。橙色と深緑のツートンカラーで登場した直流急行型電車153系に始まるスタイルは交直両用急行型電車にも採用され、こちらはクリーム色と小豆色のツートンカラーとなりました。

 国鉄(JNR)を図案化したロゴマークは子供心にもカッコいいと思ったものでした。
 現在では見慣れましたが、国鉄分割民営化が決まってJRのロゴマークが発表されたときにはお世辞にもカッコいいとは思えなかったものでした。

 国鉄電車の集大成が東海道新幹線として登場した0系でしょう。そして、そのノウハウは今も発展して新しい新幹線へと引き継がれています。

 旅客車のみならず、当時の物流を支えた国鉄コンテナ特急牽引用の高速電気機関車EF66型。晩年になってまさかのブルトレ牽引への抜擢には正直驚きました。

 明日はいよいよ高度経済成長期を支えた企業戦士の一員だった父との最後のお別れです。



あなたは寝相良い?悪い?


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 自分ではとても良いと自負していますが、なぜか起きると布団の寝相が悪くてぐちゃぐちゃ、枕は布団を飛び出して畳の上(私はベッドが嫌いなので畳の上に布団を敷く派です)に脱走、旅行で旅館に泊まると浴衣がはだけて風邪をひくので足が勝手にステテコ穿いて寝ています。