同居人と再会してびっくりしたのは、

 

いわきのお姉さん夫婦が、二本松の家に一晩泊まっただけで、帰ってしまったことでした。郡山のバスターミナルから、私と入れ違いにいわきに向かったと。。

 

同居人は一二週間くらい、二本松に滞在してもらうつもりだったと言っておりましたが。

 

やはりと云うか・・ご老人は自分の家をそのままにしておくことができず、

 

義母のお姉さんの旦那さんが、実家(二本松の家)にもっと居たいと云う奥さん(お姉さん)を引きずるようにして、

 

いわき行きのバスに乗り込んだと聞いたのでした。

 

確かに避難して空っぽの家を狙った泥棒の噂は当時ありました。

 

それにしても・・

 

水道まだ復旧してなかったんですよね、その時。。

 

でもまあ仕方がない、ご老人夫婦でなんとか切り開くだろう、と思い直すしかありませんでした。

 

私がカートに詰めて来た救援物資(主に食糧)は半分が無駄になりましたが。

 

二本松の家には変わりはありませんでした。

 

義母の旦那(故人)が結構な読書家で、本棚にぎっしりの本が落下したりもしてませんでした。

 

後に、お墓を確認にいったら、かなりの数の墓石が被災していたので、運がよかったと思いました。

 

ちなみに同居人の家の墓も、おおむね無事でしたが、古い墓石で台座からずれているのはありました。

 

食糧もコンビニやスーパーは開いていたので、調達することはできました。

 

しかし、

 

燃料に窮しました。

 

灯油は昔から取引している燃料屋さんが追加に来てくれたのですが、

 

車のガソリンが、とんでもないことになっていました。

 

ガソリンスタンドは長蛇の列。

 

その列の後尾に並んでも、順番が来たときには、底をついていました。

 

ほうぼう回ってみたのですが、その滞在の折にはガソリンを入れることができませんでした。

 

うちはあまり走行しないのでなんとかなりましたが、

 

たくさん乗らなければならない家庭は困ったに違いありません。

 

もちろん仕事用の車も。

 

スーパーやコンビニでは、ペットボトルの水やトイレットペーパーの買い占めが起きていました。

 

ことにペットボトルは、原発事故のせいで水道水からセシウムが検出されたからと、人々は目の色を変えて買いあさり、販売に制限がかかっていました。

 

老人も若い人も殺到して、あさましかったです。

 

さまざまな物品の買い占めが起こり、地震のせいで輸送がままならないため、補充が間に合わず、食品の棚はガラガラになっていました。

 

まるで襲撃にあったかのようでした。

 

十年経っても、被災とは呼べなくても、心に刻まれた爪痕のように記憶は薄れていません。

 

自衛隊の人々の給水や、炊き出しの活動も、耳に入って来ました。

 

いわきの断水はそれから十日近く続いたそうです。

 

水もキツかったですが、停電した地域も少なくなく、病院や介護施設では死にもつながる大惨事でした・・。

 

すべて弱い者に被される悲惨な事態でした。

 

原発事故は辛くも、最悪の事態を回避できましたが、

 

その後の風評被害の酷さ、被災しているその上に酷い言葉を投げつけた人がいたことをわたしは忘れません。

 

忘れたくても忘れられない・・。

 

わたしは福島県生まれではないけれど、その土地に少しでも関わっって、被災を目の当たりにした者として、どれだけの人がしんどい思いをしたか・・津波で家族や大切な人を亡くしたわけではなくても、ふつうに普段の生活がしたくてもできない苦しみを味わったことも立派な被災だったと思うのです。

 

震災後十年を待たず義母は他界し、去年の春に義母のお姉さんの旦那さんも亡くなり、義母のお姉さんは認知症で車椅子生活をしています。

 

彼らは誰を恨むこともしなかったけれど、

 

でもがんばって生き、自分の生活を少しでも守ろうと戦った。とても尊いことだと思います。

 

つらさも不便も、さまざまな風評も、全てを呑みこんで生きていた。

 

そのことだけは忘れないようにしよう、と改めて思いました。そして小さくても自分に出来ることをしよう、探してみようと。

 

 

一週間に満たない短期間の"救援"を終え、東京に帰って来たわたしは、校正のため戻って来たゲラから「津波」の文字を消し、わずかですが設定の変更をしたのでした。