ためて、放つ。
世の中には「運」と「命」はあっても、「運命」というものはありません。
森羅万象の一切合切、「流れ」はあっても、その流れというのは自己の意思によって変えられます。
例えばじゃんけん。
初手で勝てるかどうかは完全に「運」だと思います。
でも十戦したあとの、11回目なら。
相手の思考と手を読み、推測したりすることはある程度可能です。
気心しれた友人だと癖の判別も相成って、勝率を上げたりすることも可能でしょう。
ですが、勝者が 「お前が負けるのは、運命だったのだ」 というと、これは違うかなぁ、と。
世の中の360℃。
目的地に向かうための足先は、自分で決めるもの。
その結末の善し悪しを問わず、自分が進んできた道のりを振り返って
「いま自分がここにいるのは、運命だったのだ」 っていうのも思考放棄気味かなぁ、と。
人生は選択の連続だ、という言葉がある通り。
やはり、自分を現在地点まで到達させたのは「運命」ではなく「自己」だと思うのです。
メチャメチャな例えですが 「お前は世界で一番不幸になる運命を背負っている」って言われた人がいたとして、その人が「じゃあ自殺するわ」と言って命を絶てば、運命の存在否定になります。
その後で占い師か誰かが 「かように命を捨てるとは、まったくもって不幸である。まさに運命通りではないか」とかほざいたところで、所詮は結果論である。
でも別の物の見方として。
○ 「うわぁ。すごい霧だ。前が全く見えない」
天 「その道を真っ直ぐ行ったら崖だから。落ちるよ」
○ 「そんなこと無いよ! きっと大丈夫だよ!」 (※)
天 「いや、だから危ないって」
○ 「うわああああああ!」
天 「……ほらね。そりゃそうなるよ」
進むと決めた時、結末が定まることがある。
客観性にのみ許された、未来予知に等しい精度での、推測。
隕石でも落ちてこないかぎり回避不能な流れ。
それだけは「運命」と表記してもいいのかもしれない。
ただやっぱり「進む」という決断を下した自身に取っては、それは運命ではなく、受け入れるべき結果でしかない。
(※)の決断を下した時に、定まった展開。
でも進むと決めた自分にとっては(勇気か無謀かは別として)未知なる一歩。
つまり「運命」ってヤツは「永遠」と同じく。
自分以外のヤツにしか語れない、ただのキザな言葉ってこった。
宝くじで考えると分かりやすいかな。
三億円当たった人は「当たる運命」にあったんじゃない。
「買う」という意思と行動に対して、偶然結果が出ただけだ。
そんな事をたまに考える僕ですが。
「え、これって運命? 産まれた瞬間から決まってたりした?」 と思うことがありました。
「アードベック」ってウィスキーがあるんですけどね。
すんげぇ美味かったんですよ。
炭酸で割って飲んだんですが、びっくりするぐらい美味しかったんですよ。
ほんと一口飲んだ瞬間に運命の味がしました。
ちょっと癖のあるタイプのウィスキーなんですが。
積み重ねてきた価値観とか、飲食の遍歴とか、タイミングとか。
「アードベック美味い」と思えたのは、そうなるように出来ていた自身の、予想外の結果。
バタフライエフェクトな人生に訪れた、ちょっとした偶然。
意識せずに積み重ねてきたものが身を結んだ瞬間。
あー、こういうのを運命って呼ぶのは、悪くないなぁ、と。
そんな事を思ったのでした。
よかったら飲んでみてください。
癖があるんで、好き嫌いはっきり分かれると思いますけど(笑)
というわけで。
飲んだ瞬間に 「やべぇ、運命的に美味い」 とか意味不明なフレーズを思い描いてしまったのでなんとなく「運命」をテーマに書いたらすげぇ読みづらい文章が完成して高笑いしてる雪尋でした。
まったらいしゅー!!