【第3話:再会】
最後の仕事を終え、空港へ向かった。
お客様に挨拶するその瞬間、胸の奥からこみ上げるものを抑えきれず、涙がこぼれた。
仕事の余韻なのか、
それとも娘に会える喜びなのか。
そのどちらでもあり、どちらでもないようなこの感情を、私はまだ言葉にできずにいた。
出張には慣れている。
飛行機に乗ることも、もはや日常の一部だ。
それでも、今日はどこか違っていた。
羽田空港に降り立ち、リムジンバスで娘のいる新天地へ向かったはずなのに、
その道のりの記憶が、なぜか曖昧に霞んでいる。
眠っていたのか、
それとも、何かを考え続けていたのか。
自分でも、はっきりとは思い出せない。
バスからスーツケースを取り出し、通りに目を向けると、暗闇の中から一台のワゴン車が静かに滑り込むように止まった。
見覚えのない車だったが、その中にいるのが誰であるかは、すぐにわかった。
会いたかった二人だった。
胸の奥に、言葉にならないものが込み上げてきた。
けれど、それをそのまま外に出すことはできず、ただ一言、「ただいま」と口にしていた。
家でもない場所で発せられたその言葉は、どこか不思議な響きを持っていた。
「こんばんは」では距離があり、「お疲れ様」では場違いだった。
そのどちらでもない、曖昧な一言だけが、今の自分の心に最も近かったのかもしれない。
ここから、短い生活が始まる。
それは、いつものようなホテルのチェックアウトに向かう滞在ではない。
別れの日までという、期限を与えられた暮らしだった。
夜はすでに深まっていた。
けれど、この一日一日は、そんな時間の感覚とは無縁だった。
たとえ夜が遅くなろうとも、構わない。
眠らなくてもいい――ただ、その瞬間を大切に、娘と過ごしていたいと思った。
【第4話:3人暮らし】
始まりは、娘の部屋からだった。
LINEで届いた「せま」という一言を思い出しながらドアを開けると、思ったよりもずっと広い。
「なんだ、いいじゃないか。ベッドも上等だ」
そう口にしながらも、この部屋で娘が、私たちのいない生活をどう歩んでいくのかを想像すると、希望よりも寂しさのほうが、少しだけ大きく胸に広がった。
考えすぎると、気持ちが持たない。
「腹減ったな、食べに行こう」
言葉にして、自分をごまかす。近所の居酒屋か、レストランか――どこにしようかと歩き出すと、妻の彩佳も、きっと同じように気持ちを紛らわせようとしているのが分かった。
「あそこ、いいんじゃない?」
指さしたのは、部屋探しのときに気になっていた中華料理店。楓花はラーメンが好きだ。理由はそれで十分だった。
限られた時間の中で、感情に浸っている暇はない。楽しもう――そう決めた。
家族三人の、新しい時間。
ビールで「乾杯」を交わすと、不思議なほど空気が軽くなる。娘はコーラでグラスを合わせる。
ふと、「いつかこの子とビールを飲む日が来るのだろうか」と考えてしまい、また胸が揺れる。けれど、それはずっと願っていた未来でもある。
思考はぐるぐると巡りながらも、食事は楽しかった。
ここの中華はうまい。特に麻婆豆腐。しびれるような辛さが心地いい。店員に聞けば、四川の出身だという。夫婦で中国から来たらしい。
親元を離れ、異国で生きる人たち。――みんな、それぞれの場所で頑張っている。
くよくよしてはいられない。
「明日は買い物、楽しもう」
そう言って、また歩き出す。
娘のアパートに戻ると、三人で一つのベッドに潜り込む。やはり少し狭い。
「真ん中は寝づらいわね」
彩佳が小さく愚痴をこぼす。その声に、思わず笑いがこぼれた。
やがて、三人の呼吸がゆっくりと重なっていく。
短くて、かけがえのない新生活の夜は、静かに更けていった。
朝になり、目を覚ますと、いつもとは違う風景が広がっていた。
それでも、隣にいる家族三人は変わらない。昨日は帰りが遅かったため、あらかじめ買っておいたおにぎりとサラダを、小さなテーブルに並べて朝を迎えた。
「さあ、今日は一日、買い物だ」
そう声をかけると、空気が少しだけ明るくなる。
レンタカーのハンドルは、今日は私が握る。
ナビの設定はしない。必要がないからだ。この道は、私が生まれ育った場所へと続いている。
偶然か、それともどこかで意識していたのか。
娘の住むこの街は、私の生まれ故郷にほど近い場所だった。
ハンドルを握りながら、懐かしさと、今この瞬間の現実が静かに重なっていく。
カーテン、じゅうたん、キッチン用品――。
生活に必要なものを、次々と買いそろえていく。まるで足りないものを埋めるように、店から店へと渡り歩いた。
支払いは、そのたびに私のカード。
何度も差し出し、何度もサインをする。
その一つひとつが、娘のこれからの生活を形にしていくようで、うれしさと同時に、どこか手放していくような感覚もあった。
大きな買い物は、テレビとMacのパソコン。
一人暮らしにしては、少し贅沢な品ぞろえだ。
ふと、自分のことを思い出す。あの頃、私は親にすべてをそろえてもらった。選ぶのは母で、私はそれに従うだけだった。
けれど娘は違う。見た目にもこだわり、ひとつひとつ丁寧に選んでいく。その姿は、私ではなく妻に似ている。ファッションもインテリアも、自分の「好き」をはっきり持っている。
気がつけば、部屋は少しずつ形になっていく。
外廊下には、積み上がった段ボールの山。
ゴミはいつ出すのか。資源ごみは、缶や瓶はどうするのか。
これまで実家では、そんなことを知らずに過ごしてきた娘が、これからはすべて自分で担っていく。
今はまだ、私たちが手を出してしまっている。
けれど、本当はもう――その役割も、少しずつ手放していく時なのだろう。
二日目の夜、三日目の夜、四日目の夜――。
いる間は、どこか名残を惜しむように外食が続いた。
朝になると、ようやく手に入れた冷蔵庫と電子レンジが役に立つ。
妻がつくる味噌汁に、目玉焼きと納豆。
並ぶのは、いつもと変わらない朝の風景だった。
場所が変わっても、家族で囲む食卓は変わらない。
その何気ないひとときが、妙に愛おしく感じられる。
――入学式までは。


