ナチスを髣髴とさせる茨城県教育委員の問題発言。障害者は生まれてはいけないのか?

茨城県教育委員会の長谷川氏が、問題発言をしたとされ辞任した問題。
多くの批判があり、Twitter等のSNSを含めて一時騒がれた問題です。
個人的に思う所があり、違う側面から書いて行こうと思います。




あらかじめ申し上げておきますが、私個人としても会社としても長谷川画廊とは繋がりがありませんし、長谷川氏や今回問題発言をされた奥様ともお会いした事がありません。

また、私の妻もまた稽留を理由に堕胎を経験しております。

まず批判の代表例として、乙武氏が


こう発言していますが本質を事欠いています。

大前提として、今こういう風に批判されているのが

健常者若しくは自立した障害者

である事は言うまでもありません。ただ、この世の中には

ショックから立ち直れず、未だに自分を卑下し続けている障害者

も少なくありません。

そして、そういう方々を自立させようと自責の念に苦しみながら今尚も奮闘されているご父兄がいる事も事実です。
かつて、私が通った学校には年2回、障害者との交流会がありました。その経験からです。
もちろん、表だってスピーチする事はありません。が、一緒にご飯を食べたりご父兄から直接聞いたことで違う側面から見ている次第です。

長谷川氏の

「妊娠の初期に(障害の有無が)分かるようにできないのか。4カ月以降になるとおろせない」

という発言は、そういう方に向けたものでは無かったのかと考えています。
もちろん、公的な場でそういう発言をした事自体は問題だと思います。
ただ、「誰に向けて言った言葉か」という点が違う方向へ捉えられている気がしてなりません。
尚且つ、批判をしている障害者団体のご父兄もまた、ある程度自立をされている障害者をお持ちのご父兄である事も付け加えておくだけでなく、障害を理由に堕胎する事自体も批判が多くあり、障害が判明した妊婦に対して堕胎を理由に障害者団体に所属する者が嫌がらせとも取れるような行為を行ったという話も聞いています。
挙げ句、障害の有無について技術が発達するにあたり、その技術そのものへの批判すら聞こえてきます。
また、個人の尊厳や堕胎そのものへの批判も見て取れるのが現状です。

更に、今ある批判の中には障害者よ、もっと増えろ。
とも取れるかのような問題ある発言も聞き及んでいます。
障害者に関する発言内容について、誰しもが気を遣い、当たり障りのない言葉で濁すのが現状です。
しかし、それでは問題の解決に至りません。
事の本質はそこにありません。

様々な観点から見ると、発言した事は問題でも、長谷川氏の立場として発言内容についてそれほど問題があるとは思えません。
平等を掲げるなら当然の発言であり、人権をも課題とする教育委員としての立場では公的な場で発言の選択肢としては問題であっても、思想としては何らおかしくありません。

私はこう考えます。

平等であれ人権であれ、擁護するのであればこういう思想もまた必要なのでは無いか?

と。

はっきり申し上げて、現在ある批判は人権や平等を無視した発言が多くあります。
障害があっても自立できる社会を望むのは当たり前ですし、自立して欲しいと願うのもまた当たり前です。
ただ、障害者全ての方が産まれ持ったハンデとされるものを許容しているとは限りません。障害者やご父兄全員が、今批判をして目立っている障害者のように奮起したり自立出来るような精神状態ではないという事です。
論点はそこです。

「障害を持って産まれてよかった」とするならいざ知らず、誰しもが障害が無い事を前提に産む方が圧倒的に多い上に、実際に羊水検査を代表とする検査が日常的に行われている現在。
検査を根っこから批判するなら分かりますが(分かりますが理解や賛同はしません)、それを飛び越して長谷川氏の発言のみを取り上げて批判する事に違和感を感じます。

批判ご意見結構です。是非およせ下さい。
ただ、こういった理由で堕胎が罪であるという意見には耳は貸しません。
それ自体が論点ではありませんし、事の本質を欠いているからです。
Twitterでも、このブログのコメント欄でも結構です。

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