小さい頃から本好きだった父が、暇さえあれば本のページを繰っているのを見ていた影響でわたしも読書が好きになった。













母が定期購読で頼んでくれた子ども用の世界のお話シリーズとか図鑑とか、いろんなジャンルでいろんな本を読んだものだけど、文庫本で小説を読みだしたのは中学生の時。今までの本のサイズとは違ってバッグにも入れやすいし持って歩きやすいところも気に入ったけど、カバーをかけて読むのが大人に一歩近づいたみたいでわくわくした。







まずはSFから入って図書館の本をいろいろ読み、暇さえあれば本屋さんにも行くようになった。
すぐにどこになんの本があるのかとか、好きな作家の新刊は何かわかるようになった。







本屋さんで買った本の中でも、中学生のその時読んだ本でガーンとモノの見方を変えるほどの衝撃を受けたのは、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』。






コインロッカーで赤ちゃんの時に捨てられたキクとハシが一緒に養子に出され育って行くまで、そして家を出てから大人になったふたりが鰐を飼っているモデルのアネモネと出会って物語はさらに加速する。






何度も読み返したのはまだ親元にいた時。







暴力的な内容で読後のちょっと浮き足立つような気分は今でも覚えてる。






まずモデルのアネモネがカッコ良すぎた。鰐を飼っているのも普通じゃないし、怖いものなしで綺麗なところが岡崎京子の『pink』の元ネタになってるのは間違いない。







今でも本は持っているけど、今読んで読後感が変わったりしたら嫌なのでもう読もうとは思っていない。でも本の中の一節が当時のわたしの心を大きく動かし、座右の銘となった。







それは『自分の欲しいものがなんだかわかっていない人は、それを手に入れることができない。』というもの。






それまで甘ったれでわがままで、へそ曲げてブスくれていても母親がなんでも言うことを聞いてくれた。そしてそれが当たり前だと思って思春期になって、外の世界はそんなに甘いものじゃないって気づきだしたのが本を読む少し前。








学校で何か欲しいものやしたい事があっても、クラスメイトにへそを曲げたように話したら誰も慮ってくれたりしない。
みんな言葉をそのまま受け取るし、わざわざわたしの気分を推し量って何かやってくれるわけでもない。







小さかった時の世界はわたしのためだけのものだったはずなのに、ふと見渡すとクラスメイトは急にみんなわたしより大人びて見える。世界中にはわたし以外にもたくさん人がいてみんなに感情があるけど、いつまでも子どもみたいに不機嫌な気分を撒き散らかしてるのは自分ぐらいで、しかもそれがカッコ悪いってわかった頃。






そうだ、自分が欲しいものや人にして欲しいことは、具体的に言葉にしなきゃ他人には伝わらないんだ、ってちょっと目からウロコが落ちたような感じだった。








バカですよね。でもそれほどスポイルされてたし、親からお姫様扱いされてたし、自分を悲劇のヒロインみたいに思ってたし、それを当たり前みたいに思ってたの。







それまでも欲しいものややりたい事ってわりといつも具体的に頭にあったけど、口に出して言語化した方が実現しやすいっていうのもわかった。






ストーンズは『欲しいものは手には入らない。でも手に入るかもしれないからトライしないと。』って歌ってて「えー!反対じゃん!!」と思ってたぐらい、本を読んだあとでわたしの考えは変わり、確固たる信念となって今でも心の中にある。






ジェットコースターに乗ってるみたいな展開の速さも好きだし、どうなるのかハラハラしながら読み進んだっけ。
作中に出てくるダチュラって自然の植物の実だけれど、どこか金属的な化学物質のような匂いがするのかなあとか考えてた。
色は親戚のうちにあったチョウセンアサガオみたいな白かな、それとも黄色かな、なんて想像したりもした。
自然淘汰からの劇的な進化を見ているようなストーリー。






わたしもアネモネになりたかった。





今はわたしはわたしでいいし、満足してるけどね。







読んだことある人っているかなあ?







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