柳生宗厳 /  戦国時代・人物 Vol.12 | ~るっちの徒然なる日記~

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柳生宗厳 (やぎゅう むねよし/むねとし) / 1527年~1606年
戦国時代の人物、剣客。 剣術の新陰流継承者。
戸田一刀斎、神取新十郎の下で剣術を学ぶ。

 

【生涯】
1527年 (1歳)
大和国(現在の奈良県)柳生城城主であった
柳生美作守家厳(いえよし)の嫡男として生まれる。
幼名は新介、通称=新左衛門。


1544年頃 (18歳頃)
大和国・戦国大名であった筒井順昭 (筒井順慶の父親)に仕える。
ただし、幼少から筒井家の人質として過ごしていた説もある。


1550年 (24歳)
筒井順昭が亡くなる。しばらくは筒井順慶に仕えるが、
いつ頃かは不明だが筒井家を離れ、柳生に戻る。


1559年頃 (33歳頃)
三好家の実力派武将である松永久秀に仕える。


1563年 (37歳)
1月、松永久秀は軍勢を率いて、
比叡山末寺の多武峰の衆徒※1との合戦に挑む。
柳生宗厳もこの戦いに参加するが、敵方の箕輪与一の弓矢により、負傷する。
なお、この戦いは松永久秀軍の敗北に終わる。

この年の夏、奈良に住んでいた宝蔵院胤栄より
「今、ここ宝蔵院に上泉信綱という新陰流の使い手が滞在しておる。
  一度会われてみてはいかが?」といった内容の手紙が届く。

さっそく会いに行って試合を申し込むが、上泉信綱は取り合わない。
何度も食い下がった結果、上泉信綱の弟子・疋田景兼を相手にする事に。
結果は…2回対戦し、2回とも負けるというものになった。
柳生宗厳は己の未熟さを悟り、上泉信綱の下に弟子入りする。

※1 … 僧兵の事。


1565年 (39歳)
新陰流の皆伝を受ける。


1566年 (40歳)
新陰流の奥儀の伝書を受け、新陰流2代目を継承する。


1568年 (42歳)
織田信長に拝謁し、信長の命を受け
室町幕府第15代将軍・足利義昭の剣術師範役となる。
柳生谷へ帰る途中で落馬し、一時危篤状態に陥る。


1571年 (45歳)
織田信長に対し、松永久秀が謀反を起こす。
辰一の合戦 (松永久秀軍 vs 筒井順慶軍=織田方)では
嫡男・厳勝と共に松永久秀軍側として参加する。

しかし、この合戦で嫡男・厳勝鉄砲により重傷を負い、
剣を振るう事が出来なくなってしまう。


1573年 (47歳)
足利義昭の剣術師範役を返上する。
病と称して、致仕(官職を退いて引退する事)して柳生村へ帰る。
そして蟄居する。
おそらく、松永久秀の下を去った可能性がある。


1577年 (51歳)
松永久秀が織田信長に対して謀反を起こす。
ただし、松永久秀を助けるつもりはなく、傍観する。
松永久秀が亡くなった後、大和の支配者となった筒井順慶にも従わず、
柳生家の独立態勢を保つ。


1579年 (53歳)
師匠であった上泉信綱が亡くなる。


1585年 (59歳)
大和国に入った羽柴秀長による太閤検地で
隠田が見つかってしまい、所領を没収されてしまう。
この後、浪人になるが、豊臣秀次の計らいにより100石を拝領。


1593年 (67歳)
入道して、雪舟斎と号する。


1594年 (68歳)
5月、徳川家康から京へ招かれ、五男・柳生宗矩と共に
徳川家康を相手に無刀取りの術技を披露する。
剣術指南役として出仕を要請されるが、老齢を理由にこれを辞退。
代わりに柳生宗矩を推挙し、徳川家康はこれを認め、
柳生(現在の奈良県)に500石の所領を与える。
これ以降、柳生家は代々、徳川将軍家の兵法師範役として務める事になる。


1600年 (74歳)
9月、関ヶ原の合戦が起こる。
柳生雪舟斎は徳川家康の命により、畿内の情報偵察の任務に就く。


1606年 (80歳) 
生まれ故郷である柳生にて亡くなる。享年80歳。
法名は芳徳院荘雲宗厳居士

(おわり)