最近、車を買い替えようか検討していました。

 

結局のところは今の車を使い続けることにしましたが、検討していた時に、元夫のこだわりが思い出されました。

 

 

 

 

 

 

元夫は「量が多い事」にこだわりがありました。

 

中でも「目に見える」量についてこだわりがありました。

 

冒頭の車で言えば、元夫が車を選ぶ際のポイントは「荷物が多く載せることができるか」の一点でした。

 

だからと言って、普段車を乗る時に荷物が多いわけではなかったのですが。

 

 

 

 

 

 

私は普段車を運転していますが、車に関して本当に無関心で、

 

メーカーや車種は、今回のように買い替えを検討して自分で意識して調べない限りは情報が頭に入りません。

 

今回、いろいろ調べた中でよく見かける車が7人乗りだったことを知ったり、

 

その車が7人乗ると荷物が全く載せられなくなることを知ったりとしました。

 

ふと、そんな時に元夫の言葉が思い出されるのです。

 

「その車、全く荷物載らへんで。やめといた方がええで。」

 

と言うんだろうな~と。

 

 

 

 

 

 

 

元夫は車に興味があったこともあって、本当に車の知識を豊富に持っていました。

 

私が街で好みのデザインの車が走っていた時に

 

「あの車のデザイン、かっこいい~!」と言おうもんなら、

 

元夫は「でもあの車、全然荷物載らへんで。」と返してくる。

 

ある時は、よく見かける車種について私が

 

「あの車種よく見るけど、乗りやすい車なのかな?」と聞こうもんなら、

 

元夫は「あれは乗りにくいで~。荷物全然載らへんしな。」と返してくる。

 

元夫にとって「荷物が多く載せれるか」が最重要事項なので、荷物が多く載せれない車は

 

デザインがどうとか、ファミリー層に選ばれやすいとか、そんなことは全く関係のない話でした。

 

 

 

 

 

 

 

この元夫の「荷物が多く載せれるか」というこだわりに対してこちらが困ることはありませんでしたが、

 

いちコミュニケーションとして注目した時、話が広がっていかないことに対しての寂しさは多少感じていました。

 

 

 

 

 

 

前述した、好みのデザインの車が走っていて「かっこいい~」と話したことに対して

 

「全然荷物載らへんで」という返し、情報としては”そうなんだね”となりますが、その後の会話も続きがありまして、

 

私「そうなんや~。まぁ、見た目的にも小さいし、そりゃ荷物載らへんわなぁ。」

 

元夫「あんなんあかんで。」

 

私「まぁ、何を基準にするかは人それぞれだしね。私は外見も結構大切やわ。」

 

元夫「荷物全然載らへんのに、意味ないやん。」

 

私「まぁ、荷物多い時はそうやね。でも毎回荷物多いわけじゃないし、普段荷物を沢山載せたい人はそういう車を選べばいいしね。」

 

元夫「そうやで。」

 

 

 

 

 

 

前述した「乗りやすい車なのかな?」に対しても

 

私「荷物が載る、載らないじゃなく、よく見かけるってことは走りやすいのかな?って思うんだけどどうなんだろう?」

 

元夫「荷物載らへんかったら意味ないやろ。」

 

私「運転しやすさとか、メーカーによって違うやん?そこら辺、どうなのかな?って思って。」

 

元夫「それはあるけど、荷物が載るかどうかやろ。」

 

 

 

 

 

 

こんな感じで、会話が広がっていかないのです。

 

一見会話が成立してはいますが、何を話しても「荷物が多く載るかどうか」に戻ってくる。

 

今回例に挙げた以外でも、車の話題になると元夫は「荷物が多く載るかどうか」が大切で、他の話題には乗ってこない。

 

段々と元夫と車の話をするのが嫌になっていきました。

 

 

 

 

 

 

ひとつひとつの事例はとっても些細で大したことじゃなくても、

 

このとっても些細なことの積み重ねが違和感に繋がり、話題を避け、会話できる内容が減り、寂しさを感じるようになりました。

 

日常会話は、はっきりいってほとんどは意味のなさないものだと思います。

 

だけどその意味のなさない会話からお互いを知ったり、他者と自分は違うんだということを再認識したり、

 

こんな考え方があるんだ!という学びがあったり、自分自身の知識が増えたり、自分を豊かにしてくれるものでもあります。

 

それが元夫との間ではそういった関係性が残念ながら構築できなかった。

 

のちに元夫がASDの特性を持っていることを知った時に、構築できなかったことは仕方ないことだったのだと腑に落ちましたが。

 

それでも寂しさを感じたものでした。

 

 

 

 

 

 

「量が多い事にこだわった」他のエピソードとしては、

 

元夫はご飯の量が多い事にこだわりがありました。

 

なので、私に対して食事の量(ひとつのメニューの量)を多く作るように要求してきたし、

 

元夫が作る時もとんでもない量を作っていました。

 

 

 

 

 

 

今や私の中ではネタにして笑い話にしていますが、

 

長男が2歳頃で次男が生まれていない3人暮らしだった頃、元夫は豚汁を2L作ったことがありました。

 

「これで1週間分くらいあるでしょ。(私がご飯を作る手間が省けて)楽できるでしょ。」

 

と元夫は嬉しそうに私に話していましたが、私の心の内は、

 

”え?1週間も飲み続けなきゃいけないの?”

 

”お味噌、1週間も持たないよ…。ダメになっちゃう。具材が勿体ないよ…。”

 

”食事を楽しむ心はないの?ただ作ればいいってもんじゃないよね?”

 

などなど、複雑でした。

 

元夫は作った週末に一人実家に帰っているので、その時にこっそり捨てました。

 

(それでも3日ほどは飲みました。)

 

食事も色んな考え方はありますが、私にとって食事も一つの「楽しみ」としたいので、

 

毎日色んな食材を新鮮な状態で食べたいと思い、多めには作っても、ある程度計算して多めに作っています。

 

ただ多く作ればいいものではないと思っています。

 

 

 

 

 

 

元夫はどこかへ行ってお土産を買うのも大量でした。

 

食べ物だと賞味期限が気になるくらいの量でした。

 

一度私が「賞味期限のことを考慮しようよ。」と言うと、

 

「ここでしか買われへんもんやし、美味しいから買ってるねん!何が悪い?!」

 

と逆切れしていました。

 

 

 

 

 

 

元夫にとって、目に見える「量が多い事」はとても大切なことだったようです。

 

だけど目に見えないもの、例えば人が持っている知識など、は量が多いことは興味なさそうでした。

 

 

 

 

 

 

こうした目に見える「量が多い事」にこだわることも、

 

ASD(グレーゾーン)の特性によるものではないか?と、今になって思っています。