今日はニコラスが何故「仏教」に関する記事を書いているかお話ししたいと思います。
私は「仏教徒」ではありません、数年前まで零細企業の社長をしていた、ごく「普通のオッサン」です。
20歳代から仏教に興味を持ち、書店で目にする多くの「仏教本」をいろいろと読み漁りました。
それらは専門家が執筆された書籍がほとんどでした。
「入門書」といわれるものも、何度も読み返さなければ理解できないものが多かったと今は感じています。
その頃読んだ、ある「二つのエピソード」が「お釈迦さま」に対する考えを変えてくれました。
一つは、
「釈迦族の王子だったお釈迦さまは、結婚をして子どもまで出来たのに、真理を求めたいと出家された・・・」
これって考えようによれば、「落語」が大好きな父親が、もっと「落語に没頭」したいから、家庭を捨て「弟子入り」した・・・ ってことに近いかも。
妻や子どもは「えーっ お父さん、そりゃないでしょ・・・」となりますよね。
もう一つは、お釈迦さまが「覚りを得た時」に、
「わたしが覚りえたこの『法』は、はなはだしく深くして、悟りがたい。
苦労してやっと得たものを、なぜまた人に説かねばならぬのか・・・」(梵天勧請経)
と、覚られた『法』を独り占めにしようとされました。
最後には『梵天(1)』の諫言により、「教え」を広められる決意をされたのですが・・・
これって、超「利己的」な発想だと思いませんか・・・?
お叱りを受けるのを覚悟で言いますと・・・
「私の覚ったことって超『凄い』かも、でもこの考えを理解するのは『凡人』には無理だろう・・・
家も子供も捨てて得られた『覚り』だ、秘密にしておこう・・・」という事ですよね。
「利他的」と言われる仏教の教祖の言葉とはとても思えませんでした。
しかし反面、私はお釈迦さまって、なんて「人間的」な方だろうと親近感を覚えたのでした。
そしていつの頃からかお釈迦さまの「覚られた」真実は、「宗教」ではない、「哲学」だと思うようになりました。
ですから「ニコ呟・・・」では、記事の分類を「哲学入門」にしています。
もちろん「仏教」が、そんなに簡単に理解できる「教え」だとは思っていないのですが、もう少し分かり安いものがないのかと、いつも思っていました。
「哲学」と言うとまた敷居が高くなってしまいますが、悩み多い人生に対するお釈迦さまからの「アドバイス集」だと思うのです。
いろいろあって「うつ状態」に陥ったときも、お釈迦さまの様々な「教え」が深く身に染み入りました。
元気な時には「理解出来なかった」お言葉が、少しずつ私なりに理解できるようになってきたと感じています。
仏教の専門家の方にすれば、門外漢の「仏教解説」など笑止千万かもしれませんが、
「哲学的価値」をお座なりにした、現代の「葬式仏教」に対する私なりの「アンチテーゼ」なのかもしれません。
「お念仏を唱えれば」救われる・・・
「良い戒名」をつけて頂くと極楽へ行ける・・・
お釈迦さまは、決してこのようなことはおっしゃらなかったと思うのです。
そのようなことに対し「否定も肯定」しない現代の「仏教関係者」に「疑義」というか、「不信」を持たれた人は、
仏教本を読んだりはしなくなってしまったのでしょう。
でも、それは『もったいない』と思うのです。
僧侶でもない、仏教徒でもない、普通のオッサンが呟く「ののさまの教え」が
みなさまの参考になれば幸いです・・・
参考・引用 : つぎはぎ仏教入門 他
Nico
(1) 梵天
インドの伝統神、この世を司る最高神。
「ああ、これでは世間は滅びるだろう、釈尊よ『法』を説きたまえ」と説得されたと「梵天勧請経」に書かれている。