Nicoの世代にとって「涅槃」という言葉はどうしても「沖正也氏の自死」を連想してしまいます・・・
自死した沖正也がテレビドラマ版収録直後の1983年(昭和58年)6月28日、「おやじ、涅槃で待ってる」という遺書を残し、新宿京王プラザホテルの最上階より警備員の制止を振り切って飛び降り自殺。
31歳の若さで早世。突然の死は日本の芸能界に大きな衝撃を与えた・・・
1981年4月に東名高速道路・都夫良野トンネル付近で単独交通事故を起こし、身体的には軽症で済んだが「心の病」を発病し抗うつ薬を服用したと伝えられている・・・
抗うつ剤の副作用(意欲が亢進すると言う主作用と共に、食欲も亢進し体型がふくよかになった)に悩まされており10月以後再び長期休業する・・・
この当時は現在よりも心の病に対する認識が一般的にまだ一段と低く、週刊誌・ワイドショー番組などでの報道も「ノイローゼ」と言う言葉のみで語られる事がほとんどであり、様々な憶測記事も飛び交った。
遺書にある「おやじ」とは、義父であり所属事務所社長でもあった日景忠男の事である。
(Wikipedia抜粋)
涅槃とは仏教用語で「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界」のことです・・・
「三法印」の一つ「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とは、涅槃とは悟りの世界のことで、原語は(ニルバーナ)で「吹き消されている状態」ということ
仏教本来の意味からすると、涅槃とは「いっさいのとらわれ」、しかも、「いわれなきとらわれ(辺見)」から解放された「絶対自由の境地」であるとされます
「諸行無常」・「諸法無我」の事実を自覚することが、この涅槃寂静「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界」への道とされます・・・
つまり「悟り」への「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」ですね・・・
「変わらないものなんて、何もない」と気づいて 「変わっていく私こそが、自分なんだ」と気づいて「いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地へと・・・」
また「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界」を説いたことが「三法印」のインパクトを強め、仏教が他の教えと異なるものとして「法印」といわれているのでしょう
しかし、Nicoみたいな「煩悩の塊(かたまり)」みたいな人間は、理屈では「ホップ」「ステップ」がなんとなく分かったとしても「ジャンプ!!」とはなんないです・・・
まっ 実際 お釈迦さまは別の「説法」で「煩悩を絶たず、涅槃を得る・・・」(これNicoの好きなフレーズ)ともおっしゃっている訳ですから、三法印の三番目の「涅槃寂静」は出家信者の為の「教え」だと思います・・・
お釈迦さま以前の宗教家達も「理想の境地」を涅槃と呼び、「苦行」によって実現できると考えましたが、一時的な「無念無想」の境地でしかなかったり、五官の「慾楽に耽る世俗的快楽」による「涅槃の境地」を主張するものもいました
こうした自己陶酔的な境地が「真の涅槃」なのではなく、単なる苦行や禅定によっては得られない「精神的絶対寂静の境地」が涅槃なのだとお釈迦さまが「三法印」の「ホップ・ステップ・ジャンプ」理論で説かれたのだと思います・・・
ところで「自死」は「仏教の戒律」に違反しているかどうか・・・
ちょっと調べてみましたが確立した意見はなさそうです
五戒(1)(ごかい)の一つである「不殺生戒(ふせっしょうかい)」→「生き物を殺してはいけない」の解釈に自分の命も含まれるか否かが「論点」のようです・・・
専門家でも意見の相違があるようですが、「死魔」の誘惑に負けたり、四煩悩(我癡、我見、我慢、我愛)に溺れた結果としての自死は、死ぬまでの自分はもちろん、死んだ後に周囲の人達にも苦を与えるので、仏教の教義からして認められるものではないと考えるのがNicoは妥当だと思うのですが・・・
いずれにしても「死んじゃったら」ゲームセット
お釈迦さまは
「ちゃんと生きて涅槃を得る努力をしてみてはどうですか・・・」と私たちに解かれたのですから「死んで涅槃で誰かを待っています・・・」は仏教の教えとは何にも関係ないことは断言できます・・・
駄文失礼しました・・・ Nico
(1)五戒(ごかい)とは、仏教において「在家の信者」が守るべきとされる基本的な五つの戒のことで、より一般的には「在家の五戒」などと呼ばれる