「フォークの神様」と呼ばれた「岡林のぶやす」は「うつ病」に罹患したが、岐阜県の山村に移り住み4年間の農耕生活後に回復に向かった。
おそらく「精神科」などには行かず「土と触れ合う生活」が彼の治癒を早めたのだろう・・・
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父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていた。
しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。その時期に宣教師に出会い牧師となって大阪の神学校で通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。当地で信康は生まれる。近江兄弟社中学、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ「脱出」、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。
1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3ヶ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発。
書き置きは「下痢を治しに行ってきます」。
1970年4月、コンサートに再登場。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だった「はっぴいえんど」をバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る。1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、表舞台から再び姿を消す。
人ぎらい、街ぎらいの「うつ病」を病むが、自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める。1973年にソニーへ移籍し、活動を再開。ロック路線のアルバム『金色のライオン』『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」「26番目の秋」などの曲は、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった。この時期はレコードこそ発表はしたが、数度のゲスト出演を除き人前に登場しなかった。
数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた。ふと聞いた西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた。4年間にわたる農耕生活を終え山を降り亀岡市に転居。
1975年には、岡林本人もコロムビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』をコロムビアより発表。久しぶりのワンマンコンサートも行う。コロムビアでは他に、新録の2枚組ベストアルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』などを発表。
「ミッドナイト・トレイン」「Good-bye My Darling」「君に捧げるラブ・ソング」「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲。1980年、テレビドラマ『服部半蔵影の軍団』のエンディング・テーマである「Gの祈り」を発売。しかし、『ストーム』制作の際、プロデュースを担当した加藤和彦にそれまでの作詞の根本としていた部分を「逃げ」だとして批判されたことで自分のスタイルを見失い、再び迷走してしまうことになる。
1980年代中頃より、メジャーレーベルとの契約が切れたことなどもあり、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始し全国を巡る。また、この頃より封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。さらに、同時期、日本民謡的なリズムに乗せた、独自のロック「エンヤトット」を思案。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing』を発表。その後、東芝や日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。
「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野音ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。
2009年の九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーした事をきっかけに、翌2010年、EMIから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム~我が心の美空ひばり~』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行う予定。
本人は気さくな性格で、コンサートで「友よ」の歌い出しを「ホモよー♪」と自ら歌うほどである。
部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」は、放送禁止歌の代表例といわれる(実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在しない。抗議などを恐れての自主規制・自粛である)。現在に続くエンヤトット(御歌囃子)の活動は、英国を訪れた際に会ったキング・クリムゾンのリーダー、ロバート・フリップに「欧米の真似ではなく日本独自のロックを見せろ」と言われたことをきっかけにしている。
2009年、美空ひばり作詞の「むぎばたけの鳥」を作曲した。
岡林の作品の特徴として、「くそくらえ節」の様に関西弁と東京弁を混ぜた歌詞も有れば、「山谷ブルース」の様に東京弁だけを使用した歌詞も有ったりする。
(Wikipedia抜粋)
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「今日の仕事は辛かった・・・」で始まる山谷ブルース
「工事終わればそれっきり お払い箱の俺たちさ・・・ だけど俺たちいなくなりゃ
ビルも道路も出来きゃしねえ 誰も分かっちゃくれねえか」
1968年、岡林のぶやすは現代が抱える「非正規社員」や
「負け組」と言われる人たちの境遇を暗示していたのか・・・
不条理な労働環境に対し、彼は44年も前にメッセージを発信していたのだった
山谷ブルース
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=qDa4Z11bcaI&feature=fvwrel