Black Sheep Diary-418

夜な夜なテレビをつけてまどろんでいると、
福山雅治演じる坂本龍馬が潮風を浴びていた。



正直言って、オレは龍馬ファンではない。
偉人であることには間違いないが、

どうも薩長史観(=「幕末ってかっこいいよね!」っていうあの感覚)が肌に合わない。。。


ここまで龍馬が偉人扱いされるのも司馬遼太郎の功績であろうが、

なぜかくも日本において龍馬の人気が突出しているのか?
不況から抜け出せない日本には龍馬のような人物は魅力的に映るのだろうか?



敵対関係にあった薩摩(鹿児島)と長州(山口)を結んで倒幕した構図はさしずめ、
「イスラエルとパレスチナを和解させてアメリカを叩く」に匹敵する偉業(?)かもしれない。



「つなぐ」という発想はそれだけ大きなエネルギーを生む。
ネットを例に挙げるまでも無く、
鉄道、郵便、金融、人材派遣、教育・・・等々、
もはや「つなぐ」無しには社会基盤が成立しなくなっているのは明白なのだ。

しかし、薩長同盟は藩閥政治を生み、結局は立憲政治の波に飲み込まれた。
ユビキタスな連絡ツールのはずである携帯電話も、
時として「メールの返信が遅い」などのような新たなコミュニケーション被害を生み出している。
必ずしも「つなぐ」事が社会の進歩のみをもたらしてきたとは言えないのではないか。


現代の科学が、多くの人やモノを繋いで発展してきたのだから、
その地平を考えておく必要がある。


「つなぐ」の後にくるものは何か?


様々な考えがあるだろうが、
オレは「共有」または「共感」だと思う。

個体と個体がつながって新たな固体に成れるなら話は別だが、
こと人間に関しては龍馬の時代よりも遥か昔から、
生物として精神的な成長は遂げていない。


もちろん情報や知識のリレーのおかげで地球が丸いことは知っているが、
「あいつが憎いから殺してやる!」という話はその辺にゴロゴロ転がっているではないか。

「人と人とのつながりを大事にしようぜ」って取って付けたような月並みなことを言うつもりは無い。


ただ、不特定多数の人間と無意識にも「繋がれてしまう」時代において、
自分の意識や思想の軸がどこを向いていて、誰にどのように流れていくのかってのを意識していないと、
現代社会のメスに切り刻まれてしまうんだろうな。

或いは、同じベクトルで他人を傷つけてしまう事だって想定しておかなくてはならない




それは詰まるところ、

シャカのいう「縁」でも、キリストの言う「隣人」でも、マホメットの言う「コーラン」でもなくて、
それ以前に、生物としての人間が持つ極めて原始的な本能に近いものかもしれない。




要するに、


人間である事のプレッシャーを感じておかないと、必要以上に傷付くぞ、ってこと。














オレがいなくなったって世界は何にも困らないだろうけど、


だからこそ、


だからこそ、


「頑張ろう」


って思えるんだよ。