ショパン エチュード Op.25 No.7 古典調律聞き比べ動画をUPしました。

ピアノ演奏は、クラウドソーシングの Lancers 経由でピアニストのかたにお願いして演奏していただきました。

 

【ミーントーン編】

 

【ウェルテンペラメント・キルンベルガー編】

 

 

 

「いかにもショパン!」といいたくなるようなショパン節全開の曲です。それだけにピアニストの度量が試される曲でもあり、実際にyoutubeにあるいろいろなピアニストの演奏も参考に聞き比べてみたのですが、比較的淡々と演奏する人から、お色気たっぷりにねちっこく演奏する人まで、ある種の性癖がバレてしまうような、恐ろしい曲でもあります。

 

細かく見ていくと、低音部に置かれた主旋律は、チェロを連想させるような音遣いが出てきます。フレーズの始まりに1オクターブ下の音を引っかけて鳴らしたり、フレーズの終わりに1オクターブ下の音を「ズーン」と鳴らすようなところがソレですね。チェリストがこれを聴くと、チェロで弾いてみたくなるものらしく、実際にチェロとピアノの編成に編曲して演奏された動画がYoutubeにたくさんUPされています。

 

例:

 

 

ショパンのピアノ曲ばかり聞いていると、チェロのイメージはあまり無いのではないかと思いますが、ウィキペディアによるとショパンは「ピアノの次にチェロが好きだった」と言われており、実際にピアノとチェロの曲も書いているのです。

例:

 

気になるのは、ショパンがバッハの「無伴奏チェロ組曲」を知っていたのかどうか?です。「無伴奏チェロ組曲」が一般に広く知られるようになったのは20世紀に入ってから、パブロ・カザルスの名演奏がきっかけだったと言われているので、ショパンの時代には一般にはまだ全く知られていなかったわけですが、友人にチェロ奏者がいたとすると、練習曲のような形で「無伴奏チェロ組曲」が演奏されて知っていた可能性もゼロではないかな・・・?と思うのですが、まぁこれは微妙ですかね。

 

冒頭、低音の旋律が1小節遅れで1オクターブ上で現れるところなどは、バッハのカノンを思わせます。エチュードを作曲するにあたってバッハのWTCを参考にしていることは間違いないと言われているので、バッハっぽいところがあってもおかしくは無いですよね。

  

バッハと似ている所に気が付くと、逆にバッハと異なる、ショパンならではの部分も明らかになります。まず伴奏のような形で入る8分音符のきざみですね。前奏曲の「雨だれ」を連想させるような音遣いです。バッハは対位法を駆使して曲を組み上げようとする傾向があったので、対位法と伴奏を組み合わせた曲というのは逆にあまりなかったと思います。この伴奏が入ることで、情景描写が豊かになります。演奏するうえでは、この伴奏と旋律のバランスをうまく取ることが案外難しいので、エチュードとしてのこの曲のポイントの1つなんだろうと思います。

 

さて、調律の聞き比べです。こういう悲しげな雰囲気の曲は、平均律でも美しく聞かせることができます。平均律のうなりが悲しみを演出するのにうまくハマります。

 

ミーントーン系の音律だと、ちょっとお色気がプラスされます。低音部と高音部の旋律のかけあいが、男と女の情事みたいなものを連想させるような、エロさが出てきます。私はこれも全然アリだと思うんですけど、どうでしょうねぇ。少なくとも1つ言えることは、ショパンが G#-Eb(D#)のヴォルフを意識して、これが悪目立ちしないように配慮して作曲しているという事です。そのおかげで、1/6コンマ・ミーントーンやシュニットガーの音律でも具合よく演奏できるのです。

 

#が4つの曲なので、ホ長調の移動ドで言うと、G# と D# はドレミの「ミ」と「シ」にあたります。ミの音は低め、シの音は高めになるので、ミ と シ を同時に鳴らす和音、たとえば ミソシ などでは響きが悪くなるわけです。作曲上、この和音を使いたくなるケースは多々あったはずで、それをほぼ避けているというのは意図的にそうしているとしか考えられません。

 

ミの音は低め、シの音は高め、ということは、カデンツァでいうと、ソシレは不安定な響きになり、ドミソは安定して響くということでもあります。ソシレ → ドミソ のコード進行の場合、 ソシレが不安定で、ドミソで落ち着く、という形でうまくハマります。

 

一方、ウェルテンペラメントやキルンベルガー音律では、黒鍵はほぼピタゴラス音律になり、白鍵の調律の違いというのはあまり目立たず、概ね安定した響きを聴かせることができます。ミーントーン系のように色っぽくなりすぎることもなく、こっちのほうがショパンらしいイメージに合うので好まれそうです。

 

キルンベルガー第1をショパンが想定していたかどうかは気になりますね。Dに#がつく調なので、D-Aのヴォルフはほとんど出てこないのですが、途中で少しだけ出てきます。38小節目の所です。

で、D-Aが出てきた後、次の小節で不意に旋律が途切れるようなブレークが入ります。なので、D-Aがヴォルフであっても、それはそれで解釈として成り立つような、配慮されたD-Aの使い方になっている気がするんですよね。

この点は、同じエチュードでも Op.10 とは大きく異なる点で、ショパンが Op.25 を作曲するにあたり、キルンベルガー第1をかなり意識して作曲していたのだろう、といえる理由の1つです。 D-A に対する配慮は、Op.25では他にもいろいろ見つけることができます。