ショパン「別れの曲」エチュード Op.10-3 音律聞き比べ動画をYoutubeにUPしました。

楽譜はエキエル版を採用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

1年ほど前にUPした動画の改定版です。

https://www.youtube.com/watch?v=PN1Cb5Y9m_0

 

 

画面のレイアウトを変更した事と、聞き比べ音律を6つに絞った以外は概ね同じ内容ですが、画面の下部に現在聴いている音律の五度圏の図があることで視覚的に今何を聴いているのかが解りやすくなり、結果的に、Youtubeの視聴者動向のレポートによると視聴時間が概ね3倍ほど長くなっているので、この動画でもその効果を狙って改定版を作製しました。

 

良く知られている曲ですので、微妙な音程の違いも比較的解りやすいのではないかと思います。

 

私は、パデレフスキ版も、平均律で演奏する分には推奨されていいだろうと思っています。

ショパンの直弟子だったミクリが纏めた版がベースになっているものであり、ミクリなりに「こうした方が良い」という何らかの確信があってそうしたものであろうと思われます。要因の1つとして、ミクリが出版した1870年代と、ショパンが作曲した時代、1833年頃とでは、ピアノも大きく変化しましたし、ピアノに施される音律も違っていた事を考慮すべきであり、そうした事を総合的に判断した結果だっただろうと思うのです。

 

一方で、「ショパンはどのような音律を使っていたのだろう?」ということを考察するにあたっては、その時代の楽譜の方がふさわしいだろうという事で、フランス初版をベースとしているエキエル版で聴き比べ動画を作成しました。

 

パデレフスキ版との目立った差異が 30~31小節目と34~35小節目 にあります。

古典音律の観点で見た時に気が付く事は、ここで D-A の五度が出てくるという事です。もしピアノの音律にキルンベルガー第1を使っていたなら、ヴォルフのまずい響きになってしまう和音です。この事から、ショパンがこの曲を作曲した当初、キルンベルガー第1 のことは全く想定していなかっただろうということが伺えます。

 

その後、ショパンはキルンベルガー第1にも配慮した曲を多く書き残している訳ですが、これは当時のパリで、キルンベルガー第1 を使う人がショパンが想像していたより案外たくさんいて、楽譜をたくさん売って好評を得るためには、キルンベルガー第1 についても考慮せざるをえなくなったという背景がありそうです。交通機関が貧弱だった当時は、楽器の所有者が自分でピアノを調律するケースも多かったはずです。あらゆる調律法の中で、調律手順がもっとも簡単と言っていい キルンベルガー第1 は、調律が専門ではない人が調律するのには好都合な音律だったのでしょう。

 

この曲は、「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」 とショパンが語ったという逸話が残されているほどの曲です。そのような思い入れのある曲が、楽譜を買ったピアニストにキルンベルガー第1で演奏されてしまい、具合の悪い響きがある事を指摘されるのは我慢のならないことだったはずで、それが微妙に異なるバリエーションが色々と生まれる要因の1つになったのではないか、と思われるのです。

 

では、もともとショパンがキルンベルガー第1を想定していなかったことはよいとして、ではどんな音律を使っていたのでしょうか? 色々聴き比べてみた結果としては、私は改良中全音律のどれかだろうと考えています。この動画では改良中全音律の代表的な例として、シュニットガーとラモーを選定しましたが、微妙に異なるバリエーションは他にもたくさんあります。

 

「改良中全音律」としてくくられる音律の主な特徴の1つは、 D# と A# がかなり高めの音程になるということです。この曲の場合、旋律を美しく歌い上げるのに、高めの D# と A# がとても効果的だという事に気が付きます。それから、白鍵どうしの3度・6度がほぼ純正になるということも大きな特徴です。この曲の難所である46小節目からは、6度の和音が連続します。この響きは、平均律だと、とてもヒステリックに聴こえてしまうので、和音を構成する各音の音量にも気を配らなくてはならず、非常に難しい所とされています。これが、3度・6度の響きを重視している改良中全音律では、随分印象が違って聴こえます。音楽的な流れがより自然になり、必然性のある展開に聴こえるように思われます。和音が本質的に美しく響くので、各音のバランスも取りやすくなります。

 

そして、「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」とショパンが語った事の意味も、改良中全音律で演奏すると、より深く知ることができます。「改良中全音律」は、現在の我々にしてみると、とても癖が強く、制約も多く、非常に使いがっての悪い音律なのです。こんな使い勝手の悪い音律で、何か音楽作品を作れと言われても、現在の作曲家の多くはさじを投げてしまうのではないでしょうか。そんな面倒な音律であるにもかかわらず、この「別れの曲」と組み合わせた時に、大きな破綻が無いというのは、それだけでも驚くべきことであり、とても偶然とは思えないのです。