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末法の本仏 日蓮大聖人の著作から、御金言を毎日取り上げます。

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十五、日蓮、伊豆配流の難を蒙る                                                英語版 

 

 

 

(伊東市 城ヶ崎海岸)
 
 

 下総はいまの千葉県北部を中心とする一帯である。現在とちがい田園が広がっていた。
 夕陽が富木常忍の館を染めた。
日蓮は齢四十になっていた。
故郷清澄寺で立宗宣言して八年がたつ。あっという間の歳月だった。日蓮は物思いにふけっているのか、山の端に沈まんとする夕陽を見ていた。
となりの部屋では弟子たちが筆を走らせ経巻を書写している。また所化の小僧は水をくんで富木の家人とともに夕餉の支度をした。法門について議論しあっている弟子もいた。
日蓮はこの下総の地でさかんに布教を進めた。下総は富木常忍の地盤であり、縁故の武士も多い。
日蓮は常忍の館で早速、百日百座説法を始めた。常忍が知人をこの説法に招いた。この「百日百座説法」を機縁として、大田乗明、千葉氏家臣・曽谷教信、富木常忍の縁戚で幕府御家人の秋元太郎らが入信した。
大田乗明は幕府の問注所の役人である。日蓮と同年齢だったという。下総国葛飾郡八幡荘中山郷に住み、富木常忍、曽谷教信、金原法橋とともに下総中山を中心に日蓮の外げ護ごにあたった。大田乗明の祖父は問注所の初代執事である三善康やす信のぶで、その子三善康連やすつらから大田姓を名のったといわれている。乗明は康連の子で、三代続けて問注所の役人であった。

いっぽうの曽谷教信は、下総国葛飾郡曽谷に住んでいたので曽谷と称した。教信は日蓮の二歳下で、元仁元年(一二二四年)、国分村曽谷の邑ゆう主しゅ、大野政清の長子として生まれた。邑主とは地主の意味である。曽谷は北信越にも所領があり、かなり裕福だったという。曽谷の親孝行は有名である。父の死去の日から十三年間、法華経の自我偈じがげ(注)を毎朝読んだという。

また秋元太郎は「この時の日蓮聖人の説法を聞いて弟子に定まった」と、日蓮に消息を書き、そのことを日蓮は秋元殿御返事で次のように記している。

 

御文委くわしく承り候い畢おわんぬ、御文に云く、末法の始、五百年にはいかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに、聖人の仰おおせを承り候に、法華経の題目に限つて弘むべき由、聴聞ちょうもん申して御弟子の一分に定まり候。殊に五節供はいかなる由来、何なる所表、何を以て正意としてまつり候べく候や。[秋元殿御返事]

 

伯耆房が椀に白湯をはこんできた。日蓮は待ちかねていたのか、ごくりと飲み干した。
そこに当主の常忍が入ってきた。

日蓮はにこやかだった。

「常忍殿。いつもながらお世話になります」

常忍があらたまって身なりを正し日蓮の前に正座した。

「上人、そんなもったいないお言葉痛み入ります。上人の説法で私の縁戚、同僚が入信し法友ができました。感謝に堪えません。ところで僭越ですがわたしに一つ考えがございます」

「さて、考えとは布教についてかな」

「そうです。上人、これからはこの下総の地を本拠とされてはいかがでございましょう。ここは鎌倉とちがい、敵もなく、守護の千葉氏は幕府内でも有力な御家人です。北条氏とて、うかつに手出しは来ません。また上人の故郷も近い。海山の幸もほかとはちがって恵まれております。いかがでしょう」

 日蓮が答える。
「ご親切にかたじけない。だがこの日蓮はあくまで日本の権力の中心地、鎌倉で法を弘めるつもりです。鎌倉はこの日本の都。日本の主が住むところです。その主が法華経をたもつまで、わたしは法をひろめてまいりたい」
「過日、聖人が最明寺殿に見参された以降、幕府の動きがさっぱり伝わってきませんが、立正安国論への幕府の対応はどうなったのでありましょうか。最明寺殿はご覧になったのかどうか。いろいろとさぐりをいれましたが、いっこうに埒が明きません」
 日蓮が一口湯を含んでから答えた。
 「幕府重臣として宿屋殿、また儒官の大学三郎殿がおられるので、最明寺殿がたとえご覧にならなくとも肝心な事は聞かされているはずです。また周辺の者には驚きであったはず。もし最明寺殿が賢人ならばかならずわかるはずです」
 常忍が胸中でつぶやく。
 (もし、最明寺殿が愚かなら上人にはどんな難がふりかかるのやら)

数日後、富木常忍の屋敷に突然見知らぬ武士が三人訪れた。
騎馬の武士三人が常忍邸にかけつけたのである。
「だれかおらぬか」
鏡忍房が玄関でひざまずいて応対した。
「こちらは下総国守護の文官、土木常忍のお屋敷でございますが、なにか」
「ここに日蓮御房はおられるか」
筆頭弟子の鏡忍房は、相手の素性が不明なため慎重に答える。
「日蓮聖人は確かにおりますが、どのような御用件でしょうか」
「鎌倉からの使者である。通せ」

これを聞いた日蓮は一人で客間にはいり、上座にむかって手をあわせた。
使者の三人が部屋に入り、つかつかと床の間を背に、上座の中央と左右に座る。そのあと少し間を置いて、富木家の家人が茶と菓子を膳に載せ、使者の前に恭しく差し出す。
上座の真ん中に座った上役と思われる使者は、運ばれた膳を一瞥いちべつすると、すぐに日蓮に向かって問いかけた。
「そのほうが日蓮御房であるか」
使者は幕府の権威を傘に、あくまで居丈高である。
「いかにも日蓮と申します」
 左右に座る使者は懐から紙を出し、二人の会話を筆記している。
「このたびの仰せ、鎌倉へ出頭せよとの知らせである。場所は幕府政所。あいわかったか」
「うけたまわりました。で、いつ」
「すぐにも」
「どのような件で」
「それはわれらの知るところではない。必ずまいるよう」
使者たちは、出された膳に手をつけることなく、役目を終えるとすぐに出ていった。

別室で待機していた常忍と弟子たちが、どっと客間に入ってきた。
日昭がすぐに問いかける。
「上人、時頼さまからの使者でございますか」
「どうもそのようだな」
日蓮はそう答えると、常忍にむきなおった。
「常忍殿。今までのこと、お世話になりました。明日鎌倉へ出立いたします」
座が緊張した。
日朗が不安げにいう。
「上人、それは考えものではないでしょうか。鎌倉はまだ危険です。時頼様が上人をどのように扱うのかわからない今、出かけるのは虎の口にはいるようなものではありませんか。再度念仏者どもが襲ってこないともかぎりません」
上機嫌になった大進房が止めた。
「筑後房、心配は無用だ。わざわざ鎌倉から使者がこられた。上人の祈りがとどいたのだ。わしはお供する。そんなに心配なら、そなたもついてくるがよい」
日蓮は昇りはじめた月にむかい南無妙法蓮華経と唱えた。

弘長元年五月十二日、日蓮の一行は朝比奈の切り通しをぬけて鎌倉に入った。切り通しは鎌倉に七か所あったという。鎌倉が三方を山にかこまれているため、山を掘削し、人馬が通れるようにした道である。
 日蓮を先頭に弟子の一団が若宮大路をすすむ。
町人が一様におどろいた。
「法華宗の日蓮ではないか」
みな日蓮が生きていたことに驚いた。
「鎌倉に戻ってまた騒動がおきなければよいけれど」
女たちが不安げに日蓮を見つめていた。

政所では鎧甲をつけた屈強な武士が門を守っていた。
日蓮が門を見あげて入る。
豪壮な建物に広い庭があった。だれもいない。警護の武士が立っているだけだった。
役人が先導して日蓮を案内した。
庭に粗末な筵むしろが一枚だけ敷かれている。これは日蓮を罪人として見なしていることになる。だが日蓮は、来るものが来たとばかり全く表情を変えない。
役人が筵を指さした。
「ここに」
日蓮はゆっくりとすわり、足を結跏趺坐けっかふざに組んだ。
三人の役人が出てきた。そして筵の日蓮を見おろした。
「法華宗の僧侶、日蓮。そのほうを伊豆流罪とする」
いきなりの下達である。
日蓮が真っすぐに役人を見た。
役人は下文を淡々と読みあげていく。
「そのほう法華経を第一とし、念仏を無間地獄、禅宗を天魔の所業などと誹謗した罪浅からず。くわえて鎌倉諸処で口論をいたし、各宗の僧を悩ましめた罪状は明らかなり。そのうえ前年鎌倉の松葉ヶ谷で火付けをいたし、世を惑わしたのは幾多の証人から明らかである。これほどの重罪のかずかず、死罪・打ち首が正当なるも、僧侶の衣をまとっておる者、みだりに命を召しては八幡のおとがめあり。よって伊豆に遠島申しつけるものなり」
下達を宣言すると、役人はすぐに立ち上がろうとしたが日蓮が止めた。
「おまちくだされ。罪状の件、究明されてはおりませぬ。各宗の僧侶を召し集め、正邪を決することが先決でありましょう。でなければご政道にもおとるもの。式目の定めは・・」
役人が聞こえないかのようにひきあげた。
かわりに二人の武士が近づいた。二人とも罪人を見る目つきをしている。
常忍や弟子たちは外でまちうけていた。
みな心配顔だった。
やがて馬に乗った日蓮がでてきた。表情がけわしい。
日蓮が武士に囲まれて通りすぎた。
常忍がその武士を見てつぶやいた。
「あれは罪人担当の役人では・・」
日朗が泣きそうになって走ってくる。
「上人は伊豆に流罪とのご沙汰です」
「なに、日蓮上人が流罪だと」
 ふだん温厚な常忍も思わず怒号をあげる。
日蓮が馬に乗せられ、目の前を通りすぎていく。

北条時頼は政所の廊下をゆっくりと歩いていた。従うのは重時である。
時頼は格子窓の前で止まった。
 彼は僧侶が馬に乗って通りすぎるのを見た。
重時がしかたなくひざまずいた。
時頼がつぶやくように聞く。
「あれはどこの寺の僧侶だ」
「罪人の護送でござる」
 時頼がわずかに驚いた。
「僧侶がか」
「いかにも。日蓮と申す者」
「にちれん・・はて聞いた名だな」
重時の口調は弁解がましい。
「過日、念仏は無間地獄といった立正安国論なる書をたてまつった坊主でござる。このたび関東において破戒の僧、怠慢の坊主どもを取り締まる下知を出したばかり。あの日蓮はその最たる者でござる」
時頼はゆっくりと思いだした。
「たしか、われらが手をこまねいていれば、日本国に内乱と他国の侵略があると予言めいたことをいった者か」
「ありもしないことをのべて幕府を混乱する罪は死罪よりも重いもの。このたびの仕置の責任は、重時が一身に負っております。いかが」
時頼がなにごともなかったように歩きだす。
重時は時頼の同意を得たとばかり、にやりと笑みを浮かべた。

人々が八幡宮の門前で手をあわせていた。そこに兵卒に囲まれた馬がゆく。
常忍と弟子たちが馬上の日蓮によりそって進んだ。
沿道で野次馬がさわいだ。
「あれはどの寺の僧侶だ」
「知らないのか、日蓮とかいう坊主よ。ほら、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とばかり唱える・・」
「坊主が伊豆に島流しか」
「鎌倉様に楯突くからこのざまだ」
群衆は思い思いに馬上の日蓮に罵声を浴びせる。
「念仏を唱える者は、地獄に堕ちると責めた罰だ。自業自得じゃ」
「打ち首にならないだけ、幸せというもんだ」
沿道をとりかこんだ野次馬からつぎつぎと罵声があがった。さらに事情を知る武士の中から馬上の日蓮に声がかかる。
「日蓮上人殿、いくさはいつおこるのじゃ」
群衆がどっと笑いだす。
「どの国が攻めてくるのか教えてくだされ。宋か、それとも高麗か」
群衆はその声に追従し、さらに高笑いする。
このなかに涙目の女性がいた。日眼女と日妙である。二人とも群衆から遠く離れ、日蓮にそっと手をあわせた。日眼女は夫の四条金吾とともに知らせを聞いてかけつけた。 
金吾が富木常忍と出くわし、問い詰めた。
「どういうことだ」
「早まったのだ。こうとわかっておれば上人を鎌倉にはこさせなかったものを」
 二人は歯ぎしりする思いだった。

馬は由比ヶ浜に着いた。
雨がふりだした。海も白波をたて荒い。
日蓮が馬からおりて船にのる。
船には漕ぎ手と、船に同乗する目付の武士がまっていた。二人とも日蓮を見る目は僧を敬う目つきではない、あくまで凶悪な罪人を見る眼だった。
十六歳になった筑後房日朗が泣きながら日蓮を乗せた船を追いかける。
「お武家様、わたしがお供します。わたしも一緒に乗せてください」
そばにいた役人が櫓ろで日朗をはらい、突きとばした。
 日蓮が日朗を止めた。
「まて筑後房、船には乗るな。お前まで罪人になる。これも鎌倉殿のご沙汰だ。お前は鎌倉でやるべき大事なことがある」
師の表情がけわしい。今まで見せたことのない気迫である。
役人が弟子たちをなだめた。
「安心いたせ。伊豆は近い。われらは安全に日蓮殿をおくりとどける。みなの者立ち去れい」
日蓮が船に乗り込む。
船は海上にすすみ、鎌倉が遠くなっていった。
あたりは一面の海となった。
波がさらに荒くなってきた。
漕ぎ手と役人が用意していた縄で自分の体を舟板に縛りつける。海にほうり出されないためだった。
二人はおたがいの目をあわせた。
日蓮は船の上で目をとじ「南無妙法蓮華経」とつぶやき続けていた。
ここでいきなり船が大きくゆれた。日蓮は一瞬よろめいたが、すぐに目を開け船の端をがっしりとつかんだ。
漕ぎ手の船頭は日蓮の挙動がおかしかったのか、思わず笑いころげる。
海岸では弟子の筑後房が雨にうたれ、船がみえなくなるまで波打際を走り続けた。

日蓮を乗せた船が大きくゆれた。
船首が垂直ちかくに傾く。
つぎに全身に波がおそいかかってきた。
日蓮はせまい船のなかで、ころげまわりながら身をささえる。
こぎ手が笑った。
「これはよい波じゃ。罪人にとって好都合というところか」
「これでは伊豆にたどりつけまい」
命綱をつけた役人が笑う。
「のう日蓮とやら。それともいっそ海の藻屑もくずとならぬか」
二人が大声で笑った。
どうせ罪人である。護送の途中で波が荒かったため、行方不明になったと報告しても責められない。
日蓮が船中をころがりながら、懸命に身をささえた。全身をうつ激痛はこん棒に打たれたようだった。さらにまともに浴びる海水は打撲した傷口に染み込み、火傷でもしたかのような痛みだった。日蓮の顔には急速に疲労の色があらわれた。安房育ちの日蓮は荒海のこわさを知っている。
やがて船は伊豆川奈の海岸にたどりついた。
日蓮が船から投げ出されるように砂浜に捨て置かれた。

砂浜には悪天候もあってだれもいない。
日蓮は雨にうたれ、弱り切って砂に手をついた。声もでないほど衰弱している。
(ここで死ぬわけにはいかない)

 

仏国土日本を救うため北条時頼に諫言したが、答えはあまりにもむごかった。
やがて遠くから漁民が一人二人と集まり、日蓮のまわりをとりかこんだ。
日蓮は砂に伏せたままである。
漁民がささやきあった。
「罪人らしいな」
「僧侶が流されるとは。よほどあくどい者か」
「さあ」
「どうする。このままでいくと死ぬぞ」
「助ける必要はない。放っておけ」
そこに川奈の漁民、船守弥三郎が網をかつぎながらやってきた。真っ黒に日焼けた形相である。
「どうした。なにをしておる」
「おう弥三郎、罪人のようじゃ。弱っておる。どうしたらよいかのう」
弥三郎は怒った。
「たわけ。なぜ手当てしない」
「じゃが、地頭がうるさいでの」
「おまえたち、地頭がこわいか。わしらは漁師だ。苦しむ者を助けなければ、いざという時、天から見捨てられるぞ」
弥三郎が網を仲間の漁師に預け、日蓮をおこす。そして楽々と背にかつぎ、わが家へはこんだ。
「帰ったぞ」
妻が笑顔でむかえたが、かつがれた日蓮を見ておどろいた。
「浜で倒れていた。手当てしてくれ」
弥三郎は日蓮をゆっくりとおろし、土間にすわらせた。
妻はすぐに桶に湯を入れ、丁寧に日蓮の足を洗った。
日蓮は朦朧もうろうとしながら、はじめて助かったことを実感した。そして無意識に手をあわせた。
「かたじけのうござる」
弥三郎がぶっきらぼうに答えた。
「わけは聞かぬ。どなたかも知らぬが、ゆっくりと休まれるがよい」

 

 翌朝、弥三郎が網をつくろっている。
日蓮は横たわり、眠りについていた。
女房は雑炊を煮こむ。彼女は時おり日蓮を見た。
「このお坊さんは罪人ですか。また近所から白い目で見られますね」
弥三郎はいつものとおり、妻の言うことには答えず黙々と網をつくろう。
波の音だけが聞こえた。

船守弥三郎の居間には所せましと漁具がそろっている。
この日の昼も、弥三郎はいつものように気むずかしい顔でいた。
妻は外で日蓮の衣を干していた。
日蓮は依然横たわっている。
弟子の伯耆房日興が布きれを桶の水でしぼり、日蓮のひたいにあてた。伯耆房は流罪騒動の時、実相寺にいた。あとで日蓮の流罪を知り、伊豆に渡って日蓮をさがしまわった。いま彼はようやく弥三郎の家にたどりついたばかりだった。

日蓮が眠りからさめた。
「ここは」
 日蓮の声を聞き、伯耆房の顔が思わずほころんだ。
「お目ざめになりましたか」
日蓮が痛々しくおきあがった。
弥三郎と妻は正座して頭をさげる。夫妻は伯耆房から日蓮のことを詳しく聞いた。
伯耆房が紹介した。
「こちらは船守弥三郎ご夫妻でございます。上人が海辺で倒れていたのを、誠に有り難いことに助けて頂きました」
 日蓮が夫妻を見つめ頭をさげた。
「かたじけのうございます。みなこの日蓮を憎み、妬む中、助けてくれるとはまことに不思議です。いかなる宿縁でしょうか。過去に法華経の行者でおられたのでしょうか、今末法に生れて船守の弥三郎殿と生まれかわり、日蓮をあわれんでくださるのでしょうか」
 日蓮が夫を称えるのを聞き、弥三郎の妻は笑顔になり日蓮に手を合わせた。
「さ、お食事の用意ができています。めしあがってください」
女房が椀に玄米の雑炊をいれてさしだした。
日蓮はおどろいた。
「これは米ですか。今は乏しい時期でありましょう。痛みいります」
 弥三郎がいった。
「遠慮することはねえ。めしあがってくだされ」

 

川奈の海岸は砂浜が広く長い。
日蓮が伯耆房にかかえられて砂浜をゆく。
やがて日蓮が伯耆房から離れた。
「大丈夫だ。ひとりで歩ける」
日蓮が一人、はてしなく続く砂浜を、一歩一歩足跡を残して歩きつづけた。伯耆房がうしろから心配そうについていく。
ひと月ほどたったころ、日蓮は移居したばかりの伊豆伊東の地頭・伊東八郎左衛門尉の屋敷から弥三郎夫妻に感謝の手紙を送った。 

 

「日蓮去いぬる五月さつき十二日流罪の時その津つにつ着きて候しに・いまだ名をもき聞きをよびまいらせず候ところに・船よりあが上りくる苦しみ候いきところに・ねん懇ごろにあたらせ給い候し事は・いかなる宿習しゅくじゅうなるらん、過去に法華経の行者にて・わたらせ給へるが今末法にふな船もり守の弥三郎と生れかわりて日蓮をあわ慰れみ給うか、たとひ仮令男は・さもあるべきに女房の身として食をあたへ洗せん足ぞくてうづ手水其の外ほかさも事ねんごろなる事・日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし」  『船守弥三郎許御書

 


弥三郎夫妻は日蓮の世話をするなかで日蓮の威徳に触れ自然に帰依することになった。
日蓮は伊東八郎左衛門から病気平癒の祈祷依頼を受けて祈念し、見事に病は平癒した。この事を機縁に八郎左衛門も日蓮に帰依し、伊東の漁師が海中から引きあげた釈迦立像を日蓮に寄進する。この釈迦立像を日蓮は生涯、随身し、日興に「自身の墓所の傍らに立てておくべし」と遺言している。
尚、日蓮が釈迦立像を身につけていた理由について日寛上人は「六巻抄・末法相応抄下で次のように記されている。

一には猶なお是れ一宗弘通ぐつうの初めなり、是の故に用捨時宜じぎに随うか。
二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼かの人々(当時の信徒)適たまたま、釈尊を造立す。豈あに称歎しょうたんせざらんや。
三には吾が祖(日蓮聖人)の観見の前には一体仏の当体、全く是れ一念三千即自じ受用じゅゆうの本仏の故なり。

また伯耆房(日興上人)は伊豆にいる間、日蓮に常随給仕しながら伊豆宇佐美・吉田の地を弘教、熱海真言僧の金剛院行満を改宗、行満は日行と名のり自坊を大乗寺と号した。
 この大難にあった日蓮はつぎのような書をのこしている。
法華経は至高の経典である。その法華経を末法に弘通する日蓮を罰する者には報いがくると。


法華の持者を禁いましむるは釈迦如来を禁むるなり。梵釈四天ぼんしやくしてんも如何いかが驚き給はざらん。十羅刹女の頭破ずは七分しちぶんの誓ひ、此の時に非ずんば何いつの時か果し給ふべき。頻婆娑ひんばしゃ羅ら王を禁獄せし阿闍あじゃ世せ、早く現身に大悪だいあく瘡そうを感得かんとくしき。法華の行者を禁獄する人、何ぞ現身に悪瘡を感ぜざらんや。 同一鹹味御書

 

   

梵釈とは梵天帝釈のこと。四天とは四天王(注)のことである。十羅刹女は鬼子母神の娘で、悪鬼羅刹の姿である。彼女たちは法華経をたもつ者を梵天帝釈とともに守護し、敵対する者を責めるという。
 頻婆娑羅は古代インドの大国、マカダの王だった。彼は釈尊を厚く崇拝したが、王子の阿闍世は提婆だいば達だっ多た(注)の誘惑を受けて父を殺害してしまった。阿闍世はその報いを受けて全身に瘡かさを生じて重態となったという。


                  十六、時頼、日蓮を赦免  につづく

 

自我偈じがげ

法華経如来寿量品第十六の「自我じが得とく仏来ぶっらい」から「速そく成就仏じょうじゅぶっ身しん」にいたる文。「自我得仏来」の「自我」の二字をとって自我偈という。

偈げ(サンスクリット語: gāthā)とは、仏典の記述を韻文いんぶん形式で記したもの。法華経では詳細に記した後に、要約した内容を偈として繰り返して記す様式となっている。これは経の概要を記憶し口伝で衆生に伝えるために、韻文形式で覚え易くしたものと推測される。

妙法蓮華経は釈尊五十年の説法の極説ごくせつだが、如来寿量品第十六の自我偈は極説中の極説といえる。釈尊が無量百千万億歳阿あ僧祇そうぎという長遠の過去に成道(成仏)し、その後常に衆生を教化してきたという如来の寿命の図ることができないほどの長さ、そして過去の記憶を余すことなく蘇らせることができるという如来の智慧の深さ、さらに如何いかにして衆生を無上道に入らしめるかを常に念じているという如来の広大無辺な功徳・慈悲が、漢字五百十文字の偈(詩)に説き明かされている。

「寿量品二十七箇の大事 第廿一 自我偈の事                               

御義口伝に云はく、自とは九界なり、我とは仏身なり、偈とはことはるなり、本有ほんぬとことはりたる偈頌げじゅなり。深く之を案ずべし。偈ことわり様とは南無妙法蓮華経なり」


四天王 
 三千大世界(宇宙)の東西南北に住して仏法を守護する大王。東に持じ国こく天、南に増長天、西に広目天、北に毘び沙門しゃもん天が住する。日蓮大聖人が図現された御本尊では、向かって右上に持国天王、左上に毘沙門天王、右下に大広目天王、左下に増長天王と認したためられておられる。

提婆達多 Devadatta
釈迦在世当時、仏弟子となりながら退転し、逆罪を犯して釈迦を迫害した悪比丘。提婆達兜・禘婆達多・地婆達多等とも書き、略して提婆・達多・調達じょうだつともいう。天授・天熱などと訳す。出生に関しては諸経によって異説があるが、起世経には甘露かんろ王の子で阿難の弟にあたるとあり、大智度論巻三には斛こく飯ぼん王のうの子で阿難の兄にあたるとされ、釈迦のいとこにあたる。幼い頃から釈迦に敵対し、釈迦に与えられた白象を打ち殺したり、耶や輸陀しゅだ羅ら姫ひめを争って敗れたりした。後に出家して釈迦の弟子となったが、高慢な性格から退転し、新教団を創つくったり釈迦を殺そうとするなど五逆罪を犯した。また阿あ闍じゃ世せ王をそそのかして、その父王を殺させたが、後に阿闍世王は釈迦に帰依し、提婆達多は生きながら無間地獄に堕おちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、釈迦が過去世に修行中、阿あ私し仙人として釈迦の善知識となったのが提婆達多とされ、天王仏として未来成仏の記別を与えられ、悪人成仏の例とされている。

 

    

  

 十四、国家諌暁と松葉ケ谷の法難

 

                                                                              英語版

 

 

      (日蓮大聖人御一代記より)

 

 

 文応元年八月、鎌倉八幡宮では大祭が行われていた。
能楽「太平楽」が催されている。

鎌倉幕府の征夷大将軍以下貴族・殿上人・武士の面々が着飾っている。この将軍は京都からきていたが飾りものだった。将軍の格は執権より上だが政治力はまったくない。

北条幕府は京都から源頼朝の血をひく幼児を将軍として鎌倉にまねき、物心がつくと、ていよく京都に帰すのをくりかえした。征夷大将軍とは名ばかりで、まさに幕府の傀儡であった。

いっぽう同じ鎌倉の時頼の館はいつものとおり大勢の武士で警護されていた。

時頼が一室で畳にすわっている。彼は三十三になっていた。

目の前には机と書がならべてあり、係の者がつぎつぎと書類を運んでくる。

時頼が額にしわを寄せて紙面を見ている。

横に兄弟の時輔、時宗がいる。まだ幼さがのこっていた。時輔は十一歳、時宗は九歳になった。さらに安達泰盛、宿屋入道、北条重時がいる。幕府の中枢がここにあった。

時頼がしばらく書類を見ていたが突然ほうりなげた。

「ええい、面倒だわ。こんな紙切れになんで目をとおさねばならぬ。この仕事は長時がすべきもの。いまは長時が執権なのだ。わしは隠居の身ではなかったか」

三十歳の泰盛がなだめた。泰盛は安達義景の三男。三浦氏討伐に大功があり、外様御家人の筆頭である。

「殿は北条の宗家代表でござる。細かい事務は長時殿の仕事ですが、重大なことは殿でなければ」

時頼が吐きすてる。

「地震で倒れた御所の普請をどうするか。京都や鎌倉の大番役を誰にするか。ほかに興味を引くようなものはないのか、まったく。外は祭だ。放生会ほうじょうえ(注)の真っ最中というのに」

側近の宿屋入道が進みでた。

「殿、ここにかわったものがございますが」

時頼がものうげに答える。

「なんだ、申せ」

宿屋入道が巻物をさしだした。表面に「立正安国論」とある。

「鎌倉の僧侶、日蓮という者が幕府に諌かん暁ぎょうをいたしております」

時頼が横をむいた。

「わかっておるわ。わが北条の安泰を祈るため寺を建てていただきたい。それについては金子がいる。時と場所を選んでいただきたい。いい加減、聞きあきたわ」

「いえ、そうではありませぬ。ここ数年の日本国の天変、飢饉などの災害を防ぐ方法があると申しております」

一同が宿屋をにらんだ。
 災害にたいしては手をつくしている。これ以上なにをしろというのか。

時頼が代弁した。

「ほう、それはなんじゃ。普請や作事をふやせとか、年貢をもっと高めよというのじゃな。それはもうやりつくした。人知は尽くしておるわ」

「いえそれが・・解決の道はほかにあると」

「ほう、にわかには信じられぬな。その道とはいったいなんなのだ」

「日蓮は仏法に問題があると申しております」

北条重時が口をはさんだ。彼はこの時六十三歳。分別ざかりであるはずの重時がいきどおった。

「ばかな。この日本国に神社仏閣は軒をならべておる。仏法に災害の原因があるだと。どこにあるというのだ」

 宿屋があらたまった。

「諸悪の根元が、念仏宗にあるといっております」

一同がおどろいた。極楽寺を支援する重時が息まく。

「なんと。なにかのまちがいではないか。念仏はわしも国中のものも信仰しておる。それが悪の根元だと。宿屋、その坊主を引っ捕らえてくわしく吟味せい」

時頼が重時を制止した。

「叔父上、しばらく。宿屋、それでなにをせよというのだ。念仏の僧侶を罰せよとでもいうのか」

 宿屋が慎重にこたえる。

「いいえ。罰するのではなく布施を止めよと申しております」

重時が激高した。

「馬鹿な。念仏の寺に布施をするのは誰でもしていることだ。まったくの暴論だ」

時頼が興味を失った。

「すておけ。この世には変わった者もおる。わが幕府を倒そうという輩さえこの鎌倉にはびこっておるのだ。いちいち気にしては、まつりごとに支障がおきる。まして世に知られぬ卑しい僧であろう」

平伏した宿屋が顔をあげた。

「ただ気になることが・・日蓮という僧侶、もしこの警告を受け入れなければ、さらに大きな災難がおこると申しておりまする」

「さらなる災難。なんだそれは」
「自界叛逆の難、他国侵逼の難と申しております」

 

時頼はいらいらした。

「宿屋、わかりやすく申せ」

宿屋が緊張してこたえる。

「自界叛逆難とは内乱のこと、他国侵逼難とは他国からの侵略を意味します」

「なに」

一同がざわめいた。

 

日蓮が入信したばかりの伯耆房とともに駿河の岩本実相寺から帰ってきた。松葉ヶ谷の草庵では弟子たちが集まっていた。日朗、鏡忍房、三位房らの弟子、四条金吾、富木常忍ら檀越もきていた。少年の熊王もいる。

みな久しぶりに見る日蓮の姿がまぶしく声を掛けることができない。

それを察した日蓮がまず声をかけた。

「長い間留守にしていました。心配をかけて申しわけなかった。あの地震がきっかけで、鎌倉殿にどうしても知らせなければならないことがあり、立正安国論の述作に時間を要してしまいましたが、ようやく書き上げることができました。これからはみなさんのそばを片時もはなれることはありませんぞ」

日朗が不安げにきいた。

「上人、町では上人の書のことでうわさが飛びかっております」

年長の日昭もおちつきがない。

「念仏者どもの間でよからぬうわさが」

鏡忍房が前にでた。

「上人が幕府によばれて土牢に閉じこめ、島流しになると」

日蓮はみなの心配をよそに笑顔である。

「仏が生きておられる時でさえ迫害があった。法華経の経文のとおりである。いわんや末法の今、われらに災難がふりかからぬわけがない。今こそ強盛の信心を奮いおこす時です」

若い弟子たちが目を輝かす。だがこの中で唯ひとり、三位房が疑いの眼差しをむけた。

日蓮はここで伯耆房を呼んでほほえんだ。

「みなさん、よろこんでください。このたび弟子が一人できた。伯耆房、前へ」

伯耆房がすすみでて床に手をおいた。

「岩本実相寺の伯耆房と申します。このたび縁あって上人の弟子となりました。よろしくお願いいたします」

日蓮は伯耆房を見つめた。

「伯耆房、今日よりそなたの法名を日興と名づける。我が一門の弟子は所化の小僧以外、みな法名に日文字をつける。将来日蓮亡き後、もし日文字の法名を名のならければ自然の法罰を受けると心得よ。よいな」

「はい」

伯耆房の顔は日蓮門下に連なった喜びに満ちていた。

日蓮がまわりを見わたす。

「みなさん、いまやわれらは鎌倉のみにとどまるときではない。これからは天皇・公家がいる京にも布教の手をのばそうと思う。ついては三位房」

三位房が目を輝かせた。

「そなたは京にいき、公家にこの法門を説いて聞かせよ。耳慣れぬ話であるから苦労は多いだろうが、妙法の種をまいていくのだ。これを持参せよ」

日蓮が三位房に銅銭をあたえた。銅銭はいまの五円と同じで中央に穴があり、ひもを通して千枚を束ねたのを一貫文といった。当時の貨幣はすべて中国からの輸入である。日本製もあったが品質が悪く、だれも見むきしなかった。

「いままでの供養をあつめ、たくわえておいた銭です、大事に使ってくだされ。今年は日照り続きで作物が実らぬ。道中くれぐれも気をつけてゆきなされ」

三位房は日蓮から京の布教を指名され、優越感に満ちていた。

「かならず法華経の教えを伝えてまいります」

 


月光が日蓮の小庵を照らしていた。
 弟子たちが寝静まっている。
日蓮はひとまず為政者への諫暁をなしとげた達成感で心地よい眠りについていた。

立正安国論の反響はまだなかった。北条時頼は自分の書を読んだろうか。知らせはない。

日蓮は寝床で思う。

時頼が名君であったなら、かならず一言はあるだろう。おろかであれば迫害をもって答えるにちがいない。

 

賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人の世には法華経の実義顕はるべし等と心うべし。 開目抄

 

 

はたして日蓮は北条時頼に会えたのであろうか。日蓮が文永六年に残した『故最明寺入道見参御書には「(禅宗は)寺々を挙げて、日本国中の旧寺(延暦寺などの法華経寺院)御帰依を捨てしめんが為に、天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、之を申す」と記され、さらに文永七年十二月に認めた法門申さるべき様の事にも「故最明寺入道に向つて、禅宗は天魔のそいなるべしのちに勘文もつてこれをつげしらしむ」と記している。

 

 立正安国論では「律、念仏、禅、真言」の四宗の中でも、庶民に蔓延していた念仏に対し特に批判を強めて書いていたが、武士の間で禅宗がもっぱら信じられていた。そのため武士の棟梁たる時頼に直参した際、あえて禅宗に対する批判を直言したものと思われる。

なお日蓮を時頼に引き合わせるために尽力したのは寺社奉行として立正安国論を日蓮から時頼に取り次いだ宿屋光則と、立宗早々に日蓮に帰依し、幕府儒官だった大学三郎と思われる。日蓮は故最明寺入道に立正安国論を献上する際、事前に大学三郎に見せていたとも伝えられている。また宿屋光則は、立正安国論献上が奇縁となり日蓮に帰依することとなった。

いずれにしろ日蓮は法華経の行者として責任をはたし、国家諌暁を成し遂げた満足感は深かった。

謗法ほうぼうを知りながら時の権力者に知らせない者は、悪人とともに無間の獄に堕ちるという。

 しかし国家諌暁の結果は「愚主の世に非道先をすべし」となった。

 また鎌倉の民衆も後に日蓮が中興入道御消息で次のように記されたようになっていく。

 

はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見る人、値あう人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、は歯をかみ、父母・兄弟・師匠・善友もかたきとなる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万民をどろくほどに

 

静かな夜だった。立正安国論を献上して一カ月ほど過ぎた文応元(一二六〇)年八月二十七日のことである。
 外では黒衣の念仏僧を先頭にして百人ほどの群衆が音もなく集まり、松葉ケ谷の草庵をとりかこんでいた。

暗闇の中、たいまつに顔を照らされ眼だけがぎらぎらと光っている。やがて彼らは手に持ったたいまつをかかげ、日蓮の草庵に火を放った。

たちまちパチパチと音がして火の手が上がる。立正安国論の反動は最悪の結果であらわれた。

日蓮が外の騒ぐ音で目を覚ますと、寝室が灰色の煙に包まれていた。

「みなの者、おきよ、火事だ」

弟子たちがあわてて立ちあがり、外に出ようとしたが、群衆が立ちふさがっているのに驚愕した。

群衆が一様にわめいている。

「念仏の敵だ。殺せ、殺してしまえ」

弟子たちは群衆に分け入り、必死に日蓮の退路を確保しようとしていた。

日蓮がまわりを煙に囲まれ迷った。

この時、伯耆房が日蓮の手を引いた。

「上人、こちらです」

伯耆房が裏口へむかう。弟子たちがつづいた。


 念仏者の群衆が燃え盛る炎に歓声をあげた。家屋が炎につつまれ焼けくずれる。

覆面をした二人の武士が念仏者の背後に立っていた。

ここに町役人がかけつけた。

「何事だ。鎌倉で火付けは重罪中の重罪だ。引っ捕らえるぞ。みなの者、神妙にせよ」

草庵を取り囲んでいた群衆は、文字通り火の粉を散らすようにあわてふためいて逃げだした。

火の勢いがおちつくと火消し衆が日蓮の草庵の打ちこわしにとりかかった。

その様子を覆面の武士二人が遠巻きにじっと見ている。北条重時、長時の親子だった。

長時はいま執権の職にいる。父の重時は極楽寺良観の大檀那で極楽寺殿といわれていた。重時にとって日蓮は念仏の敵であり、良観の敵であった。

日蓮は後日、池上兄弟の弟、兵衛ひょうえの志さかん(宗長)に宛てた消息で次のように北条重時を評している。

 

極楽寺殿は、いみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給いしかば、我が身といい、其の一門皆ほろびさせ給う。   『兵衛志殿御返事

 

 

 

群衆の声がひびいた。

「日蓮が逃げたぞ」

念仏者が日蓮を追う。
 黒衣の僧が先導し、薙刀なぎなたをもって追いかける。暗闇にたいまつの火が走った。

走る日蓮らの目の前に一人の武士が立っていた。暗がりの中から現れたのは四条金吾だった。

日蓮は安堵した。

「おお、金吾殿」

「上人、こちらへ」

金吾が谷へおりる狭い道へ案内した。

「かたじけない」

そこへ群衆が殺到した。

金吾がさえぎって両手を広げる。

「とまれ」

群衆は興奮しきっている。

「だれだおまえは。日蓮の仲間か」

 金吾が大声で叫ぶ。

「なにがあったかは知らぬが、わずか数人の者を大勢で取りこめようとはなにごとだ。そこにおるのはどこの坊主だ。殺生を禁ずる坊主がなにをしておる」

黒衣の僧がたじろいだが、壇越がかわりになじった。

「やかましい。われらは念仏の敵を退治しておる。ええい邪魔だ。どけ」

群衆がたいまつを金吾にむけるが、彼はすばやく刀を抜いた。たいまつは切断されて宙に浮き、火の粉が群衆らの頭にふりかかった。

群衆が悲鳴をあげる。金吾がそのすきを見て逃げ去った。

日蓮らの一行は山裾の小さな洞窟にひそんでいた。

けがをしている弟子がいる。

日蓮が声をひそめて励ました。

「けがはないか、体は大丈夫か。皆、よくぞ逃げおおせた」

日朗は顔が青ざめ、震えが止まらなかった。伯耆房が駆けより、日朗の肩をだいた。

群衆の遠吠えが聞こえる。

ここでだれかの近づく足音がしてきた。

何者か。弟子たちが耳を澄ます。

日蓮は覚悟をきめた。三位房がうなだれる。

だが足音の主は敵ではなかった。富木常忍が月あかりの中で日蓮をさがし回っていたのである。

常忍が小声でささやく。

「上人、上人・・」

日蓮の目が輝いた。

「あの声は富木殿」

洞窟の入口で日蓮は富木常忍と再会した。

常忍は日蓮の無事を確認し、ようやく安堵した。

「よくぞご無事で。さ、参りましょう」

「いずこへ」

「鎌倉にいては上人の身が危険です。ひとまず下総のわたしの屋敷へ避難しましょう」

日蓮がおもわず手をあわせた。

「かたじけない」

そこへ四条金吾も息を切らせてかけつけた。

日蓮は金吾に声をかける。

「よくぞ切りぬけられましたな。金吾殿、まことにあっぱれ」

常忍が四条金吾に告げる。

「金吾殿、上人はわれわれと共に鎌倉をはなれて、いっとき下総へ避難する」

「名案じゃ。鎌倉はわしにまかせよ。富木殿、上人をたのんだぞ。さ、早く」

一行が金吾をのこし、闇にまぎれて出発した。

日蓮がふりかえり、ふりかえり金吾を見た。金吾は両足で大地を踏みしめ、悠然と見送った。

その時、金吾は法華信徒の多難な行く末に思いをはせた。と同時に、心の師日蓮を一生涯、命をかけて守ることを胸中に刻んだ。

 

峠に朝日がさしてきた。

山中には蝉の声がかまびすしい。

常忍を先頭に日蓮の一行が汗だくになってすすむ。

鎌倉では日蓮は焼け死んだという噂が広まっていた。今のうちである。念仏者が無事を知れば今度こそあぶない。

一行は峠から鎌倉を見下ろした。

弟子たちが額にしたたり落ちる汗をぬぐう。

日蓮が鎌倉を背に下総へと去っていった。

 

下総につづく田舎道では強い日差しが一行を襲った。

田畑が枯れきっている。

百姓が鍬をいれるが、土はまるで砂のように手ごたえがない。

彼らは枯れた苗を見て頭をかかえた。

農園に旱魃が始まっていた。

日蓮の一行は周囲の人々を気にしながら道をゆく。追手がくるかもしれなかった。みな汗まみれの姿である。

弟子のひとり、大進房がうめいた。

「みず、水をくださらんか」

兄弟子の鏡忍房がさえぎった。

「水は貴重だ。がまんしろ」

彼らは黙々と歩いた。

 


鎌倉も炎天下だった。真夏の太陽が容赦なく照りつける。

街では汗まみれの女たちが井戸で水をくもうとするが、深くまで桶をおろしても水はわずかしか残っていない。

「この井戸も枯れたわ」

女たちが落胆した。

「ああここもおしまいかえ。雨がふってくれたらのう」

「なにもいいことはないのう。死人ばかりが増えよる」

「聞いたかえ。極楽寺の良観さまが雨乞いの祈りをなされるそうな」

「鎌倉さまのご命令とか。でもねえ、期待しないほうがええやろ。あの坊さまはいろんなことをやりよる。道をつくったり病人をなおしたり。でも雨を降らすのは・・」

「金もうけのほうも得意だそうな。あの肉づき。うまいものをたんと食うているらし」

一同が笑ったが、すぐにため息にかわった。

 

極楽寺の境内は町人や武士がひしめいていた。

ここでも太陽がぎらついている。群衆はすでに汗だくだった。

良観が登場し、境内中央に正座した。

祈祷の壇がしつらえ、台の上には阿弥陀像がおかれている。

そこに水を入れた黄金の椀がおかれた。

良観のうしろに黒衣の僧侶がいならぶ。彼らは庭に敷かれた板敷に正座した。

良観が手をあわせ仏像に祈る。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」

僧侶もいっせいに唱和した。そして群衆も祈っていく。

良観が祈りの最中に椀の水を仏像にかけた。

このとき紺碧の空に入道雲がわきおこり、空が暗くなっていった。

そして突然の雷鳴がひびいた。群衆がどっと歓声をあげる。

良観の裾に雨水が一滴おちた。

やがて鎌倉に静かな雨がふりそそいだ。

群衆が歓喜し、讃歎の声がこだましていった。

 

鎌倉極楽寺の邸内に高らかな笑い声が聞こえる。

美僧が酒をはこんだ。

そこには北条重時をはじめ、黒衣の僧が主の良観をかこんでいた。

重時は盃を手に、すこぶる機嫌がよい。

「さすが良観和尚。今日の祈りは天に通じたのであろう。将軍家も鎌倉殿もいたくお喜びでござるぞ」

良観はこともなげである。

「先ほど、八幡宮の別当が雨をふらす術を伝授ねがいたいとの申し出がございました」

「それにしてもみごとな。この重時にもお教えねがいたいものですな」

良観は謙遜する。

「いえ、私が仏法をわずかにものしておりますゆえ、天があわれみをかけたのでございましょう。このような立派な寺を建てていただいた重時様のお力でもあります」

「さすがは良観殿。あれほどの技をなしとげて、あくまで謙虚でござるな。鎌倉のほかの坊主どもに聞かせてやりたいものじゃ。とくにあの日蓮に見せてやりたかったのう」

「松葉が谷におりました僧ですな。わたしの信者がたいそう日蓮のもとに改宗しております」

「なんの因果か、あの火事で行方知れず。焼け死んだとのうわさじゃ。まあ自業自得というところか」

重時が笑いながらつづける。

「しかし傑作な僧でござった。念仏は地獄におちるとか、日本はこのままでいくと内乱と他国の責めをうけるとか。ありもしないことをいいおって。内乱はいざ知らず、わが日本は周囲を海という自然の擁壁に囲まれておる。十人百人ならともかく、海を隔てた大陸から、何千何万もの兵と兵糧をどう運ぶのだ。だから建国以来、日本は他国の攻めをうけたことはない。こんなこともわからんとは、なんとおかしな坊主だ」

 しかし良観は重時とちがい疑い深かった。

「ですが日蓮の信者はまだ鎌倉に多くおりまする。なにとぞ引きつづき警戒を」

「なにを心配めされるな。良観和尚ほどのお人が、たった一人の坊主を恐れることはない。日蓮がいなくなったのでござる。信者も自然消滅するにきまっておる」

良観が真顔になった。

「重時様。じつは今、日蓮は下総におるとのうわさがございます」

重時の盃がとまった。

「なに、下総とな。守護は千葉頼より胤たねじゃな」

良観がうなずいた。

「さかんに布教をしているとの噂です。この良観とて、得体の知れぬ者は気味わるいものでございます。大事にならぬように手を打ったほうが賢明かと」

良観はこの時四十五歳。日蓮より六歳年上だった。円熟味を増した年齢だったが心配の種は早めに摘んでおきたい。

「良観殿、わかり申した。任せてくだされ」

こう言うと重時は盃の酒を一気に飲み干した。


                 

 

                                            十五、日蓮、伊豆配流の難を蒙る につづく


 


 

放生会ほうじょうえ

 捕えた魚や鳥獣を放し、殺生を戒める仏教の儀式。天武天皇が六七七年八月十七日に諸国へ詔を下し放生を行わしめたのが起源とされる。神道にも取り入れられ、春または秋に全国の寺院、八幡宮で催される。

 

                                                              

 

  

    十三、立正安国論そして日興との運命の出会い

 

                      英語版

 

                                                                         

 

   (立正安国論 巻頭部分 中山法華経寺蔵)

 

 

 日蓮はひとり鎌倉の町を背に西へむかった。旅姿で笠をかぶり、荷を背負っていた。その歩みは何かに突き動かされているかのように早い。そして崩壊の惨状を自分の眼に焼き付けるかのように周囲を見渡した。

馬上の武士がつぎつぎと行きかう。

馬車が復興のための材木を積んで通り過ぎていく。

日蓮は大地震を目の当たりして、かつて延暦寺で学んだ大集経の一文を思いだした。

 

仏法実に隠没せば鬚しゅ髪ほつ爪そう皆長く、諸法も亦また忘失もうしつせん。時に当たって虚空の中に大いなる声ありて地を震ひ、一切皆遍あまねく動ぜんこと猶なお水上すいじょう輪りんの如くならん。

 

仏法が威光を失う時、人々のひげは長く、髪も爪も長い。これによって世の善論は忘れ去られる。このとき空に大音響あって地震がおきる。それは水の波紋のように大地をゆり動かす。大集経では仏法と災害の関係をこうのべている。
 

日蓮が相模をでて駿河にはいった。

岩本山実相寺をたずねるためだった。この寺は今も静岡県富士市に現存する。

歴史は古い。

実相寺は久安元年(1145年)天台宗の智印によって開基された。きわだって特徴的なのは、ここに一切経が収められていたことである。膨大な経典は天台座主だった円珍えんちん智ち証しょう(注)が唐から招来したものだった。

日蓮はあらためて一切経を読み返す必要性を感じていた。

 

この寺には多くの住僧がいた。みな若い。そのなかに伯耆房という少年僧がいた。

まだ十二歳である。今でいえば小学六年だが教育制度がなかったこの時代、武士も僧も誰しもが少年の頃から世に出た。彼は天台の法門を学んでいた。のちに日蓮のあとを引きつぐ伯耆房日興はこの実相寺の住僧だった。

その伯耆房少年が三十七歳の日蓮とすれちがった。

少年は物思いに沈む日蓮をひと目見て、今まで会った僧とちがうものを感じた。

伯耆房がふり返ったが日蓮はかまわず通りすぎていく。

伯耆房は実相寺の門番に聞いた。

「あのお方は」

「日蓮とかいうお人でございますな」

横にいた友人がおどろいた。

「なに日蓮、鎌倉で悪名高い僧侶だぞ。それがここでなにをしに。まさか折伏ではあるまいな」

伯耆房が聞いた。

「しゃくぶく」

若僧がうなずく。

「念仏や禅をさかんに攻撃しているそうだ。鎌倉ではもっぱらのうわさだぞ」

門番がつぶやいた。

「それがあの坊様、この寺の一切経をみたいと申しましてな」

「経典を見ていまさらどうするのだ。あの年なら既に一切経の修学は終えているのではないか」

「わけは不明だが、ここに来てからは経蔵に篭もりっきりで何やら読んでいなさる」

 

実相寺の経蔵には経巻が棚の上にぎっしりとならべられている。

日蓮が小机の前に正座し経巻をひらいた。そしてじっくりと座ったまま動かなくなった。

夜、雪がふってきた。皿におかれた灯火をたよりに、経巻を読んだ。

いっぽう伯耆房少年は好奇心旺盛である。彼は戸をわずかにあけて様子をうかがった。

伯耆房は甲斐国(山梨県)巨摩こま郡大井荘鰍かじか沢で生まれた。父は遠州の紀き氏で大井の橘きつ六ろくといい、母は富士由井ゆい氏の娘で妙福といった。幼い時に父を失い、母は網島家に再嫁したため、伯耆房は祖父の由井氏に養育された。

七歳の時から天台宗四十九院に登って漢文学、歌道、国書、書道等をまなび、天台の教学を積んでいた。日蓮は十二の歳に出家しているから仏法習熟の度合いはかなり早い。

伯耆房は鎌倉からやってきた僧に興味をもった。

聞けば日蓮は比叡山延暦寺で修行したというではないか。延暦寺は日本天台宗の発祥の地である。伯耆房にとってあこがれの聖地だ。それだけに興味がわいた。仲間たちは日蓮を悪僧といったが好奇心のほうが勝った。どんな人物かは話を聞けばわかるではないか。

その日蓮は飽かずに経典を読みふけっていた。

月日がすぎ、年が明けた。雪解けの小川が流れている。

日蓮は髪やひげがのび放題になっていたが、思いつめたように筆を走らせていた。窓からの光が文字をてらす。

この時、戸の外から声がした。

「ごめんください・・」

 日蓮は一瞬、経文から目を離し答えた。

「どうぞ」

戸が開かれると伯耆房が正座し頭をさげていた。彼は日蓮上人と話がしたかったが、経蔵にこもりきりでまったく機会がなかった。そこで思いきって戸をたたくことにした。

日蓮が伯耆房少年にほほえんだ。
「遠慮なく中へお入りください」
 日蓮は修行中の所化にたいしても偉ぶることはない。
 伯耆房が緊張気味に入室し、日蓮の前であらためて正座した。
 日蓮が伯耆房にほほえむ。

「なにか御用かな」

「失礼ですが、鎌倉の日蓮上人でございますか」

「いかにも」

「この寺で修業しております伯耆房と申します。さっそくお聞きしたいのですが」

日蓮がにこやかにうなずいた。伯耆房は、晩年になってもこの時の笑顔を忘れることはなかった。

「あのう。なにを調べておられるのでしょうか」

日蓮が僅かに首をかしげた。
 伯耆房が話を続ける。

「ここに来られてから半年のあいだ、本寺院の誰とも口もきかずに経文ばかりを読まれておられます。なにか大事なことでも調べられておられるのかと気になっておりました…」

日蓮が笑った。伯耆房はこんな明るい笑顔を見たことがなかった。

「それは心配をかけました。じつは去年の大地震でふと思うことがあり、一切経を拝見して確かめたかったのです」

「確かめたかったとは・・」
 伯耆房の眼が輝き始めた。少年の真剣な眼差しに触れ、日蓮の口元が引きしまった。

「災いの根元です。いま日本では天災、飢饉、疫病が蔓延している。なげかない者は一人もいない。なぜおきるのか、これをふせぐにはどうしたらよいか。それを釈尊の一切経をひも解き、確かめたかったのです」

伯耆房が身をのりだした。

 日蓮がかたわらにおいてあった数枚の書付を見せた。

「いま書いているところです。題号は立正安国論としました。今の世の乱れは念仏宗の祖、法然が根元です。これを退治しなければ国がほろびる」

伯耆房は驚愕した。

「法然上人。まさかあの法然上人ですか。十三歳で比叡山に登り、知恵は日月にひとしく、徳は師の源光上人を超えたともいわれております。その法然上人は流罪になりながらも生涯をかけて念仏を弘めました。その上人のどこがいけないのですか」

伯耆房は思った。
(やはりこの日蓮上人は噂どおりの悪僧なのか)
 伯耆房の目が一瞬疑念を生じたかに見えた。この反応をあらかじめ予想していたかのように、日蓮はわずかに笑みを浮かべ、話を続けた。

「からきことを蓼たでの葉に習い、臭きことを厠かわやに忘れるという。慣れてしまうと、人はあやまりに気づかない。

法然の選択せんちゃくによって教主を忘れて西土の仏を貴び、付嘱をなげうちて東方の如来をさしおき、ただ四巻三部の経典をもっぱらにしてむなしく一代五時の妙典をなげうつ。これをもって弥陀の堂にあらざればみな供仏くぶつの志をとどめ、念仏の者にあらざれば早く施僧の思いを忘る。結句、住持の聖僧は行ゆいて帰らず、守護の善神去つて来きたることなし。これを以て魔来たり、鬼来たり、災おこり、難おきる。

悲しいかな数十年のあいだ、百千万の人、魔縁にとろかされて多く仏教に迷う。しかず、彼の万祈ばんきを修せんよりはこの一凶、つまり法然の念仏を禁ぜん」

 伯耆房は日蓮の迫力に圧倒され、一瞬躊躇したが、かろうじて言葉をはいた。

「禁ずるとは、念仏宗を罰するということですか」

日蓮が首をふる。

「いやそうではない。念仏宗への布施を止めるのです。今すぐ止めなければ、より大きな災いがおきます」
 伯耆房にとって「念仏を信じることが悪鬼を呼び,守護の善神が去っていく」などとは今まで耳にしたことがない。にわかには信じがたい。

「布施を止めることが、なぜ災いをふせぐことになるのですか」

「災いといっても、しょせん人からおこることです。善人にほどこし、悪人の施をとどめれば災難を消し、天下泰平となる。ならば邪宗の布施を止めることです」

「念仏の布施を止めなければどうなるのですか。いま以上の災難があるというのですか」

日蓮が経典を手にした。

「経文には仏法を誹謗することがつづき、この邪法を止めなければ、国に七つの大難がおこると説く。

五つの難は目の前にある。人にん衆疾しゅしつ疫えきの難、星宿せいしゅく変化へんげの難、日月薄蝕にちがつはくしょくの難、非時風雨の難、過時不雨の難である。

もしまず国土を安んじて現当を祈らんと欲すれば、すみやかに情慮をめぐらし、急いで退治を加えねばならぬ。ゆえんはいかん。五難たちまちに起こり、二難なおのこる。自界じかい叛逆ほんぎゃくの難なん、他国たこく侵逼しんぴつの難なり。いわゆる『兵革の災』『他方の怨賊国内を侵涼す』『四方の賊来りて国を侵す』これである。

もしのこるところの難、悪法の咎とがによってならび起こり競い来らば、その時いかがせん。帝王は国家を基もといとして天下を治め、人民は田園を領して世上を保つ。しかるに他方の賊きたりてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を略奪せば、どうして驚かないではいられよう、どうして騒がないではいられようか。国を失い家を滅せば、いずれのところにか世を逃れん。すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静せい謐ひつを祈るべきものか」
 日蓮の説法が終わるや否や、伯耆房が床に手をつけて声をあげた。

「日蓮上人様、いまだ拙い所化の身ですがわたしを弟子にしてください」

伯耆房はこの人に近づいていけば、正しい仏への道を歩むことができると直感した。そう思った瞬間に言葉がでてしまった。

日蓮の返答は我が親にもまして慈愛にあふれていた。

「わたしにはすでに弟子がいますが、みな毎日の食にも四苦八苦しております。それでも良いのであれば、私を父と思って、生涯ともに修行してまいりましょう」

 伯耆房が誓う。

「わたしはこの寺で生活しております。ご不便はおかけしません。なにとぞわたしを弟子のひとりに加えてください」

日蓮は笑みを浮かべながら力強く二度、三度とうなずいた。

「これで今日から伯耆房殿は私の弟子です。私の弟子は法名に日文字をつけるのが習わしですので、伯耆房殿にも良い名を考えておきます」
 伯耆房は呆気なく日蓮が入門を許したことに驚くとともに、日文字のついた法名を受けることでさらに驚いた。
「ありがたく存じます」
 伯耆房は深々と床に手をついて日蓮の部屋を後にした。

 日蓮が伯耆房と出会ったのは正嘉二年の二月だったが、奇しくもこの月の十四日、日蓮の父妙日が亡くなった。鎌倉幕府を国家諌暁するための述作を急いでいた日蓮は故郷に戻ることはなかった。だが、この時期に書かれた「一代聖教大意」の末尾に正嘉二年二月十四日と認めている。父の死を弔む故と強く推察される。

 父の死の悲しみを胸に秘めて日蓮はさらに筆を進める。

今は国宝となっている「旅客来たりて嘆いて曰く」で始まる「立正安国論」はこの岩本実相寺で草案が練られた。

日蓮はこれを幕府の実質の支配者である北条時頼に献上しようとしていた。当時、時頼は俗の身のまま出家して最明寺入道と名乗り、執権職を義兄弟の北条長時に譲っていたが、鎌倉幕府の実権は依然として時頼が持っていた。

急がねばならない。大災害はつづいていた。
 日蓮はこの当時の鎌倉の災害の状況を『安国論御勘由来』で次のように記している。

 

正嘉しょうか元年太歳丁巳八月二十三日戌亥いぬいの時、前代に超えたる大地振じしん。同二年八月一日大風。同三年大飢饉。正しょう元げん元年大だい疫やく病びょう。同二年庚申四季に亘りて大疫だいえき已やまず。万民既に大半に超えて死を招き了おわんぬ。而しかる間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷きとう有り。爾しかりと雖も一分の験しるしも無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の体ていを見て粗ほぼ一切経を勘かんがふるに、御起請きしょう験無く還りて凶悪を増長するの由よし、道理文証之を得え了おわんぬ。終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す。
 

                     
     

十四、国家諌暁と松葉ヶ谷の法難 につづく

 

 


 

円珍智証

弘仁五年(八一四)~寛平三年(八九一)。平安初期、天台宗寺門派の祖。延暦寺第五代座主。智証大師と号す。讃岐の人。俗姓は和気氏。空海の甥または姪子という。延暦寺の義真に学び、顕密両経を学んだ。日蓮は智証が法華経第一の教義を曲げたとしてきびしく批判した。

 

 

      

十二、国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発
                      

 

                                                                           英語版

 

 

聴衆が松葉ケ谷に集まった。

四条金吾・富木常忍・工藤吉隆・池上兄弟ら古参の信徒のほか、見覚えのない黒衣の僧侶もいる。

土間のかげで二人の子供たちも顔をだして様子を見ている。孤児だった二人は寝食の恩をうけていらい、自然に日蓮の下働きをひきうけた。日蓮は少年をそれぞれ熊王、鷹王と呼んでかわいがった。
 その日蓮が薄墨の衣を身にまとい聴衆に語る。

「仏法を滅ぼす者はだれであるか。権人きりびとであろうか、それとも一介の庶民であろうか。そうではない。みなに立派な僧と慕われ、世の尊敬を集める僧侶が釈尊の仏法を滅ぼすのです。経にいわく『師子ししの中の虫の師子を食らう』と。仏法を他の敵はやぶりがたい。仏法の中の僧侶こそ仏法を滅ぼす者です」
 黒衣の僧がさえぎった。
「日蓮とやら。その僧侶とはだれをいうのか。某それがしには思いあたるふしがないのだが」

日蓮が静かに答える。

「極楽寺良観殿でございます」

聴衆にどよめきがおこる。日蓮の信徒もおどろいた様子だった。

黒衣の僧がなじる。

「なにを血迷っておるか。良観上人はこの鎌倉で生き仏といわれておる。関所を作って木戸銭を集めては深い川に橋をつくり、荒れた土地に道路をつくっておるのだ。あのような尊い方を師子身中の虫などと」

日蓮はこたえる。

「いま良観上人のふるまいを見るに、財宝をたくわえ、借銭、蓄財を所行としている。それが僧侶の姿でしょうか。だれがこれを信ずるであろう。関所を設けることは旅人にとって、わずらいです。眼前のことである。あなたは見ておらぬか」

黒衣の僧が日蓮に強く反駁はんぱくする。

「なんといっても良観殿は鎌倉殿の御帰依あつい。おぬしのような卑しい身分ではない。上かみの信任あればこそ、僧侶の力がそなわるもの。鎌倉殿のご帰依なくては、いかに正論を吐いたところでなんになろう」
 日蓮は毅然としてかえす。 

「鎌倉殿が名君であれば、必ず法華経はご理解できるはずです。笑うことなかれ。いにしえにも釈迦に阿闍あじゃ世せ王(注)天台大師に陳隋の皇帝(注)伝教でんきょう大師には桓かん武天む皇(注)がおられた。今はそれを信ずるまで」

黒衣の僧侶が笑って出ていった。

四条金吾が怒った。おとなしく聞いていたが我慢ならない。

「なんと無礼な坊主だ。わたしが問いつめてみます」

日蓮はとめた。

「まちなさい金吾殿、放っておきなさい。彼はわれわれの様子を見にきたのです」

短気な金吾は日蓮の制止を聞かずにいきり立つ。日蓮は金吾の気を冷ますかのごとく諭した。

「最初から話を聞く態度ではない。彼らはわが法華宗が広がっていることに、おだやかではなくなっているのです」

 

騒動が一段落すると、日蓮は皆に新しい弟子を紹介した。

「ところで門下に有望な若者が入門してまいりましたのでお引き合わせいたします」

若い僧が手をついた。

「三位房日行と申します。僧俗立場は異なれど異体同心で法華経の弘通に励んでいきましょう」 

三位房が得意満面の表情で皆に一礼をした。一同も深々と三位房に頭をさげる。

工藤吉隆がおもわず声をあげた。

「いやあ、いつの間にか上人のこの館も賑やかになりもうしたな」

金吾がおおげさにいう。

「これでは良観殿も我々の様子も見たくなるわい」

一同が笑った。

 

この時だった。草庵の床がゆれ始めた。

一同がさわぐ。金吾が指図した。

「地震だ。おのおの静まれい。窓を、戸を開けよ」
 いきり立っていた金吾が皆に冷静に指示した。地震がおきた時、戸や窓を開いておかないと外に脱出できず、建物が倒壊した場合、圧死してしまう危険があった。 

このころ鎌倉では地震が頻発し、めずらしくはなかった。だが今夜はとりわけ揺れが大きい。


同じころ、鎌倉幕府執権の館が小刻みにゆれた。障子がガタガタしだした。

北条時頼は立ちあがり天井を見守った。

そこに時宗、時輔の兄弟が飛びこんできた。

「父上」

「これは大きいぞ。急ぎ兵を呼びあつめろ」

兄弟があわてて出ていく。

この時、床が上下にゆれた。

時頼が叫ぶ。

「たてゆれだ」

鎌倉の町全体が波のようにゆれる。

住民が家財道具をだしながら悲鳴をあげた。彼らは外に出て、井戸のまわりにむらがった。このとき、井戸から人の声がひびいた。不気味な音響がこだまする。住民がまた散った。

さらに地面がまた激しく横揺れし、たまらず民家が倒壊しはじめた。

悲鳴がひびく。

日蓮の庵室も大きくゆれた。

「あぶない、みなさん外へ」

と言ったとたん、家屋が真っ二つにちぎられ、床下からひびのはいった地面があらわれた。

絶叫がこだまする。

大切にしていた経巻が転がっていく。日蓮は経巻が落ちる瞬間につかみとった。周囲の弟子たちが懸命に日蓮をかばうように抱きかかえた。


月明かりの中、草庵は無惨に破壊された。月光が目も当てられないほどの惨状を照らす。

町のほうぼうでは火の手があがっている。

逃げまどう人々の中、弟子たちが集まり、一人一人を確認した。

「大丈夫でござるか。けがは。みなさんおられますか。行方不明の者はおられませんか」

たいまつを手に四条金吾、常忍らがひかえる。

日蓮が信徒に告げた。

「みなさんは一刻も早く本宅へ帰ってください」

金吾がうなずいた。

「ではゆこう」

一同が四方に走り去り、筑後房日朗らの弟子が草庵のあった場所に立ちつくす。

みな安堵のあまり、泣き出しそうだった。

「上人、われらは全員無事でございます。まったく奇跡としか・・」

日蓮が思い出したようにうめいた。

「子供たちはどうした。あの二人は・・」

一同が青くなり、あたり一面をさがしまわった。

「おーい。熊王、鷹王・・」

やがて倒壊した建物の脇で鷹王が倒れているのを見つけた。横で熊王がうずくまって泣いている。

「鷹王・・」

かけよったが鷹王の息がない。

日蓮は眠るような鷹王を抱いて題目を唱え続けた。
 余震が収まると鷹王の身は日蓮と弟子たちにより、法華経の題目によって弔われ、その日の夜中のうちに荼毘だびに付された。
 

朝、鎌倉の町は押しつぶされた家々がならんだ。

家族という家族が、地面に横たわる死体のそばで泣き叫んだ。

 

この震災はのちに正嘉の大地震といわれた。マグニチュード七から七・五だったという。鎌倉の建物という建物は、ひとつのこらず倒れた。鎌倉八幡宮も無惨に傾いている。
 『吾妻鏡』はこの地震について特筆している。

 八月二十三日 乙巳きのとみ 戌いぬの刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳類崩し、人屋顛てん倒とうす。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋辺地裂け破れ、その中より火災燃え出る。色青しと。

 

午後八時ごろ、大地震はおきた。築地とは土をつき固め、上に屋根をかけた土塀である。これがすべて破損したというから、地震がいかに巨大だったかがわかる。

翌朝から日朗や日昭らの弟子たちが廃墟のあとを片づけ始めた。かろうじて生きのこった小僧の熊王も悲しみをこらえ手伝う。熊王は日蓮のもとで兄弟のように育った鷹王を失った。

ひととおり片がつくと、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆そとうばにむかって一同手をあわせた。

しかしここに日蓮の姿がない。
 日蓮は早朝、弟子たちに岩本実相寺に向かうことを告げ、すでに一人旅立っていた。
 


  

 十三、立正安国論そして日興との運命の出会いにつづく

 

  

 

 

阿闍世王

梵名アジャータシャトル。未生怨と訳す。マカダ国の王。マカダは当時インド第一の強国だった。太子であった時、提婆逹だいばだっ多たと親交を結び、仏教の外護者であった父備婆びんば娑しゃ羅ら王を監禁し、獄死させて王位についた。さらに釈迦を迫害したが、のちに懐悔かいげし、経典の第一回結集の外護者となった。釈迦は自分の命をさいて、四十年の寿命を阿闍世に与えたという。

 

 


[阿闍世王が罪を償うため仏陀を訪れた場面を描いた絵画]

 


天台大師 

 五三八~五九七。中国南北朝・隋ずい代の天台宗開祖。姓は陳氏、諱いみなは智顗ちぎ。十八歳の時、果願寺の法緒のもとで出家。天嘉元年(五六○)大蘇山に南岳大師を訪れ厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の『是ぜ真しん精進・是ぜ名みょう真法』の句に至ってついに法華三昧を感得したといわれる。三十二歳の時、宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。至徳三年(五八五)に陳主の再三の要請で仁王経等を講じ、禎明元年(五八七)法華文句を講説した。陳末の戦乱の頃、隋の晋王広(煬帝)に菩薩戒を授け智者大師の号を賜った。その後、故郷に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止まかし観かんを講じた。ついで天台山に入り六十歳で没する。彼の講説は弟子の章安(灌頂かんじょう)によって筆記され、法華三大部(法華文句もんぐ、法華玄義、摩訶止観)としてまとめられた。尚、日蓮大聖人は天台大師を、薬王菩薩の再誕で、日本では伝教大師(最澄)として応誕したと説いている。「薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども」(一念三千法門) また「聖人御難事」では「天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う」と示され、天台大師が摩呵止観の講説により出世の本懐を遂げたと断じている。

 

陳隋の皇帝

陳隋は中国の王朝名。

陳は南北朝時代、南朝最後の王朝。永定元年(五五七)~禎明三年(五八九)。梁の武帝の跡を受けて建国し、隋に滅ぼされた。天台は五代後主や文武官僚の帰依をうけた。

隋は五八一年~六一九年。楊堅(高祖文帝)が建てた統一国家。秦・漢の古代国家以後、南北に分裂していた中国を統合し唐の統一国家の基礎を築いた。


桓武天皇

天平九年(七三七)~延暦二十五年(八○六)。第五十代天皇。律令制の改革、平安遷都を行った。延暦四年(七八五)、伝教大師が比叡山を建立すると、天皇はこれを天子本命の道場と号し、六宗を捨てて伝教に帰依した。同七年、伝教は桓武天皇のために根本一乗止観院を建てた。

 

                                                               

 

                                                                                                                                                     

 

 

十一、 生涯の法敵、極楽寺良観     

                                                                          

 

                                                                                                                                                               英語版

 

                        

 極楽寺は広大な所領をもつ寺院であった。敷地にはいくつもの施設が群れをなして建っている。

この寺は第二代執権北条義時の三男、北条重時の寄進によって建築された。今も鎌倉市にのこる極楽寺は、かつての栄華を想像できないほど小さいが、当時は病院と大学をあわせたほどの規模があった。現在も極楽寺町の地名がのこる。ここには子院が四十九か所。ほかに施薬院、療病院、薬湯寮までそろっていた。
 北条重時は忍性良観を開山に迎えた。良観はのちに日蓮と降雨対決という数奇な運命をたどる事になる。

 

 境内は難民であふれかえっていた。

僧侶が柄杓ひしゃくで粥かゆをもり、難民にほどこす。貧しい人々が列をなし「ありがたや」とばかりに受け取っていく。

療病院では幾人もの僧侶が白い口当てをして患者を診た。小僧がその横で看護にあたった。

目がただれた者。咳こむ女人や癩らい患者もいる。病に苦しむ者たちが順番にずらりと並んでいた。

この敷地の中に戸を閉め切り、だれも入れない堂があった。

堂は上窓の光しか差さない。ここに数十人の僧が机の上で算盤を入れていた。その横では銅銭をひもで通し、まとめていく僧侶たちがいた。

かれらの後ろにはきらびやかな色の反物、箱に入った銅銭が積みあげられていく。

極楽寺良観は慈善活動とともに商業にも手を広げていた。経済基盤が安定しないと慈善はできない。極楽寺は宗教施設であると共に、商社の機能をも有していたことになる。

仏教史学者の松尾剛次氏は良観について丹念な研究をのこしている。氏は忍性良観が管轄していた材木座海岸のことを述べる。

和歌江嶋は飯島ともいい、材木座海岸の、現光明寺の前浜あたりに突き出て造成された人工島であった。現在は、干潮時に黒々とした丸石が露頭するのみである。由比ガ浜は、遠浅で中国船などの大きな船の着岸には適さず、六浦の方がそうした船の入港には適していたのだ。

ところが、貞永元年(一二三二)年七月一二日に、念仏僧の往阿弥陀仏は、「船着岸の煩ひなからんがため、和賀江嶋を築くべし」と、鎌倉幕府に申請した。時の執権北条泰時は大いに喜んで許可し、諸人とともに協力した。

ところで、この和賀江嶋の修築と維持・管理に関しても、忍性を中心とした極楽寺が大きな役割を果たした。史料にいう。


飯島敷地升米ならびに嶋築および前濱まえはま殺生禁断等事、元の如く、御管領あり、嶋築興行といい、殺生禁断といい、嚴密沙汰を致さるべし、殊に禁断事おいては、天下安全、壽算長遠のためなり、忍性菩薩の例 に任せて、其沙汰あるべく候、恐々謹言

貞和五年二月十一日    尊氏在判

極楽寺長老


 この史料(『極楽律寺史』)は、足利尊氏が貞和五年(一三四九)二月一一日日付で、極楽寺に対して「飯島敷地升米ならびに嶋築および前濱殺生禁斷事」をもとの通り支配権を認めたことを示している。すなわち飯島(和賀江嶋の敷地)で、着岸した船から関米(通行税)をとる権利を認められたが、それは飯島の維持・管理(嶋築き)の代償でもあったことがわかる。また前濱の殺生禁断権も認められていた。しかもそうした権利は、傍点部からわかるように、忍性以来の事であった。(中略)さらに極楽寺は、前浜の殺生禁断権を認められていた。このことは称名寺が握った権利と同様、浜での一般人の漁を禁じ、漁民に対しては、一定の金品を寺院に寄附することで漁を認める権利である。それゆえ、極楽寺は漁民に対しても統括権を得ていたといえる。この点は、叡尊が弘安九(一二八六)年に宇治橋を修造した際に、宇治川の殺生禁断権が叡尊に認められたように、極楽寺とその末寺が管理する川においてもいえる場合が多かったと考えられる。 『忍性 慈悲ニ過ギタ』より


 良観の経済基盤の巨大さがわかる。良観の経済活動は北条のあとの足利尊氏の時代にまでも影響力が及んでいたのである。歴史家が鎌倉の北半分は北条家が支配し、南半分は良観が支配していたというのは、あながち誇張ではなかった。

良観は野望をもっていた。

それは経済力をもって時の権力を操り、日本国に君臨することだった。

良観が弘めた律宗は戒律を説くだけであり、教義の中身は低い。これでは宗教上は新興の日蓮の法華宗、巨大な比叡山延暦寺を中心とする既成勢力にあなどられてしまう。これをおぎなうために、幕府権力を利用して批判勢力をおさえ、自身の栄達をはかった。

良観の出自は奈良東大寺である。

彼は奈良すなわち南都仏教の代表だが、奈良仏教はすでに時代おくれになっていた。桓武天皇の時代、伝教大師が出現して南都仏教を徹底して破折はしゃく、、没後七日目にして嵯峨天皇より大乗戒壇設立の勅許が下る。また桓武天皇は奈良を捨てて新都平安京を建設したため、奈良仏教は見る影もなくなっていた。

そのあと伝教の比叡山延暦寺から新しい仏教の旗手がつぎつぎと誕生した。法然、親鸞、道元、日蓮など、新時代の宗派はこの延暦寺からでている。日蓮も延暦寺を拠点として十年余り修学し鎌倉で布教を始めていた。このため奈良仏教の代表である良観は、なんとしても律宗を日本国にひろめ、奈良の栄華をとりもどそうとしたのである。

極楽寺の居室は壁の装飾があざやかである。

良観はあでやかな僧服をまとっていた。彼の横では大檀那である北条重時や弟子たちが盃を重ねていた。

 鎌倉武士は京の公家と比べると普段は質素な食事をしていたが、今日ばかりはいわゆる晴れの膳が並んだ。

 玄米に麦・粟を混ぜて蒸ふかしたおこわ。近海でとれた鯛の塩焼き、大ぶりの茹ゆでた車海老、色もあざやかな季節の野菜の煮つけ、鴨かもと蕪かぶのあつもの(吸い物)、大根の味噌漬け、蜂蜜が添えられた揚げ菓子、別の膳には海水を煮詰めた塩と醤びしお(塩辛)と白酒が折敷おしき(お盆)に置かれていた。

稚児が重時に酒をくむ。重時は機嫌よくうけた。

「まことに立派な寺ができあがった。鎌倉一じゃ。ここに念仏堂はもとより病院、入院寮、難民を入れる建物もできあがった。なによりじゃ」

 

良観が恐縮し、重時にうやうやしく礼をいう。

「重時様のおかげでございます。まことに殿のお力には敬服いたします」

重時が盃をおく。

「われらが和尚を援助するのは、戒律を重んじるためであり幕府のためでもある。身よりのない者や病人どもを救済すれば、治安の維持も図れる。われらにとっても好都合。和尚にとっても・・」

良観が手をあわせた。

「この身にとって恐れ多いことでございます。わたしとしては、このようなにぎやかな場所は避けて、山の中の静かな寺で持戒しなければならぬのですが」

重時が笑った。

「なにを今さら。良観和尚といえば、今や御家人でさえも恐れはばかるお人じゃ。まして今この日本国は飢饉、疫病で弱りきっておる。鎌倉のだれもが上人の威徳を頼っておりますぞ」

「さようでございますか。しかし鎌倉の皆が皆と言うわけにはいきますまい。げんにこの良観を悪人と呼ぶ御坊もいる様子でございます」

重時が横目でにらんだ。

「なに。それはどこの何者でござる」

「たしか日蓮と名乗る僧侶でございます。松葉ヶ谷に住んでいるとか」

「坊主でござるか。で、その者はなんと言っておるのか」

「念仏を唱える者は地獄に堕ちると言っており申す」

重時は念仏の強信者である。彼は一瞬怒りの表情をあらわしたがすぐ笑いだした。

「和尚、心配めさるな。どこの世界にも瘋癲ふうてん白痴はおるもの。安心くだされ。この重時はもとより、幕府の面々がついておりますぞ」

重時が高笑いした。

稚児がやってきて良観に手をついた。

「お師匠様、そろそろお時間です」

良観がうなずいて立った。説法の時間である。

長い廊下をすすむ。

供の弟子が良観の美服を脱がせ、質素な法衣に変身させた。慈善僧の身なりは華美であってはならない。

本堂は数百人の聴衆で埋まっていた。

ざわめきが絶えない。

そこに良観を先頭にして数十人の弟子が大挙して入場すると歓声がこだました。

「良観さま」

女たちは絶叫して涙を流し、袂で顔をおおう。男たちは手を振って良観の名を呼んだ。僧や尼たちは手を合わせて念仏を唱える。
 僧侶の説法の場とは思えない異様な光景である。

北条重時は鎌倉の庶民の良観にたいする度を越した熱狂ぶりに感嘆した。

 

 良観が説法の場につき、笑顔で答えた。

歓声がなかなかやまない。良観はいまや鎌倉一の名僧とはやしたてられ、現代でいうところのカリスマだった。

やがて良観が軽く咳払いをすると場内がようやく静まりかえった。

「お忙しいところ、よくおこしいただきました。本日は八斎戒をお教えいたしましょう。戒律のお話です。眠りたいかたは眠ってけっこうでございますぞ」

 子供たちがくすくす笑い、親に頭を小突かれている。

この中に日蓮の弟子、鏡忍房日暁と筑後房日朗がいた。

鏡忍房が立ちあがった。

「良観様。わたしたちは良観様を尊敬しております。鎌倉のだれもが上人を慕っております」

突然の発言だったが良観はにこやかにうなずいた。

「良観様のおかげで道路が広くなり港が整備され、いままでより、いっそう住みやすくなりました。良観様のおかげです」

良観がほほえんだ。

「そうもちあげなくともよろしい」

聴衆に笑いがあがる。ここまではよかった。

日朗が笑みを浮かべて立ちあがった。

「しかしあのような普請は、さぞかし大変でございましょう。とくに銭の入り用は苦労のいること。関所で庶民の米をとりあげ、山の材木を買い占めては高く売る。そうしなければあのような事業は困難でしょう」

場内がざわついた。

「良観上人でなければ、そのような振る舞いはできませぬ。まことに尊い。昔から律宗のご僧侶は商売や金銭の貸し借りには長たけておりますから」

鏡忍房がたたみかける。

「まことの僧侶であるならば、仏教の奥底をきわめ、人々に成仏の道を示すのが本当の僧侶と思いますが、僧侶の身で納まるわけにはいかないようですな」

良観が弟子に目くばせした。場内がざわめく中、極楽寺の僧が二人を追いはらう。

鏡忍房が去りぎわに叫んだ。

「わたしは松葉が谷に住む日蓮上人の弟子、鏡忍房日暁と申す者」
「おなじく筑後房日朗」

「日蓮上人は法華経こそ最高の教えであると申しております。説法をお聞きになりたいかたは、ぜひ松葉が谷へ」

二人はせきたてられ去った。

良観はそれでもにこやかだった。

「おもしろい御仁であること」

 そして一瞬真顔になった。

 

 

 念仏者たちは日蓮が経文を前面にして攻撃してくるのに戦々恐々とした。

彼らはあろうことか、師の法然の教義を曲げることまでして防衛につとめた。

法然は選択集でいっさいの諸宗を否定したが、念仏者たちは日蓮のきびしい指摘によって教義をまげ、諸行往生(注)を唱えだした。

日蓮はこの念仏僧らによる苦しまぎれの教義改悪を鋭く指弾する。


 此この七八年が前までは諸行は永く往生すべからず、善導和尚の千中無一と定めさせ給ひたる上、選択せんちゃくには諸行を抛なげうてよ、行ずる者は群賊ぐんぞくと見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集のごとく人を勧すすめん者は、謗法の罪によって師檀共に無間むけん地獄に堕おつべしと経に見えたりと申す法門出来したりしげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思ひをなす上、念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道あり、なんどのゝしり候ひしが、念仏者無間地獄に堕つべしと申す語に智慧つきて各おのおの選択集を委くわしく披見ひけんする程に、げにも謗法の書とや見なしけん、千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者毎ごとに之を立つ。然しかりと雖もいえど唯ただ口にのみゆるして、心の中は猶なお本の千中無一の思ひなり。在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして、諸行往生の口にばかされて、念仏者は法華経をば謗ぼうぜざりけるを、法華経を謗ずる由を聖しょう道門どうもんの人の申されしは僻事ひがごとなりと思へるにや。一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり。失とがなき由よしを人に知らせて而しかも念仏計ばかりを亦また弘めんとたばかるなり。偏ひとえに天魔の計りごとなり。 唱法華題目抄


聖道門の人とは法華経を信じる人々をいう。念仏者は自らの悪義をかくしてまで、弥陀の名号を弘めねばならなくなっていた。

 

         

十二、国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発につづく

 

 

 

 

諸行往生

阿弥陀仏と唱えて、極楽浄土に生まれる念仏往生に対し、念仏以外の諸々の善行によっても往生することができるという説。法然の弟子長西、親鸞の法友、善ぜん慧え房ぼう証空などが説いた。