開目抄 上 

 文永九年(1272年)二月 聖寿五十一歳御著作

 一切衆生が尊敬すべきものには、三つあります。
 所謂、主・師・親の三徳であります。

 また、習学すべきものにも、三つあります。
 所謂、儒教・外道・内道(仏法)の三つであります。

 儒教では、理想的な政治を行った三皇(伏羲・神農・黄帝)、五帝(少昊・センギョク・帝コク・唐堯・虞舜)、三王(夏の禹王・殷の湯王・周の文王)を、『天尊』と呼んでいます。

 三皇・五帝・三王の『天尊』は、諸臣の頭目であり、万民の橋梁となるような存在であります。

 三皇以前の人々は、子供が父を敬わなかったために、皆、禽獣と同様の存在でした。
 五帝以後の人々は、父母を敬うことを弁えて、孝行をするようになりました。

 後に舜王となった重華は、欠点の多かった父を敬いました。
 漢の高祖となった沛公は、帝王となっても、父の大公を拝しました。
 周の武王は、父の文王の木像を兵車に載せて、殷の紂王を討ちました。
 丁蘭は、母の木像を刻んで、給仕をしました。

 これらは、『孝』の手本であります。

 比干は、殷の世が亡ぶ予兆を察知して、強く紂王へ諫言したために、頭を刎ねられてしまいました。


 弘演という者は、切腹した後に、殺害された主君の懿公の肝を取って、自らの腹に入れてから死にました。

 これらは、『忠』の手本であります。

 尹寿は、堯王の師であります。
 務成は、舜王の師であります。
 太公望は、文王の師であります。
 老子は、孔子の師であります。

 これらの四人を、『四聖』と呼んでいます。
 『四聖』に対しては、『天尊』も頭を下げて、万民も掌を合わせています。

 これらの聖人には、三墳・五典・三史等の三千余巻に及ぶ書物があります。
 この三千余巻の書物の要点は、『三玄』ということに集約されます。

 『三玄』とは、第一に、『有の玄』であります。
 周公旦等がこの教えを立てました。

 第二に、『無の玄』であります。老子等に代表されます。

 第三に、『亦有亦無(有でもあり無でもある)の玄』等であります。
 荘子が主張している『玄』は、これであります。

 その他にも、「玄とは黒である。」とか、「父母から生まれる以前を尋ねると、元の氣から生ずることになる。」とか、「貴賎・苦楽・是非・得失等は、皆、自然から生まれた本性である。」等と、主張しています。

 このように、儒家の聖人たちは、巧みな言説を立てていますが、未だに、過去世や未来世のことを、少しも知ることが出来ません。

 にもかかわらず、「玄とは、黒であり、幽である。それ故に、玄と云う。」等と言ってみたとしても、彼等は、ただ、現世のことしか知ることが出来ないのであります。

 また、彼等は、「現世においては、仁義を重んじて、身を守り、国を安んじよう。仁義に相違すれば、一族が滅び、家が亡ぶ。」等と、云っています。

 しかし、これらの賢聖の人々は、聖人であるかも知れませんが、過去世を知ることが出来ないのは、凡夫が自らの背中を見られないことと同様であります。

 また、未来世を鑑みることが出来ないのは、盲人が目の前を見られないことと同様であります。

 ただ、現世において、家を治め、孝を致し、『仁・義・礼・智・信』の五常を堅く行ずれば、同僚から敬われるかも知れません。
 また、その名も、国中に聞こえるほど、有名になるかも知れません。

 或いは、賢王がその者を召して、臣下とするかも知れません。
 或いは、賢王が、師と崇めたりするかも知れません。
 或いは、王の位を譲られるかも知れません。
 或いは、諸天がお出ましになって、守って頂けるかも知れません。

 例えば、周の武王には、家臣の五老が到来して、仕えていました。
 また、後漢の光武には、二十八星宿の応現と云われるような、二十八将の家臣が仕えていました。

 しかしながら、過去世や未来世を知ることが出来なければ、父母・主君・師匠の後生を助けることは出来ません。
 これでは、不知恩の者であります。誠の賢聖ではありません。

 孔子が、「この土に賢聖はいない。西の方角にブッダという者がいる。この人こそが聖人である。」と云って、外典である儒教を仏法の初門としたことは、こういう意味なのであります。

 儒教の礼楽等の教えが広まった後に、内典(仏教)が渡来すれば、戒・定・慧の三学が認知されやすくなります。

 そのため、王と臣下の関係を教えることによって、尊い者と卑しい者との違いを定めたり、父母の存在を教えることによって、孝の高さを知らしめたり、師匠の存在を教えることによって、帰依することの尊さを知らしめたのであります。

 このことを、妙楽大師は、「仏教の流通や化導の基盤となった思想は、まさしく、ここにある。儒教の礼楽の教えが先に馳せてから、真道である仏教の教えが後に啓発されるのである。」等と、云われています。

 天台大師は、「金光明経には、『一切世間が所有している善論は、皆、この経の教えが因となっている。もし、深く世法を識れば、即ち、これこそ、仏法の教えに到達するのである。』と、記されている。」等と、云われています。

 天台大師の『摩詞止観』には、「我(釈尊)は、『三聖』を派遣して、彼の真丹(中国)を化導する。」等と、云われています。

 妙楽大師の『摩詞止観弘決』には、「清浄法行経には、『月光菩薩は、彼の国(中国)において、顔回(孔子の弟子)と称した。光浄菩薩は、彼の国(中国)において、仲尼(孔子)と称した。迦葉菩薩は、彼の国(中国)において、老子と称した。天竺(インド)より、この震旦(中国)を指して、彼の国と称する。』と、記されている。」等と、云われています。

 第二には、インドの外道について、申し上げます。

 外道においては、三つの目と八本の臂(ひじ)を持っている摩醯首羅天(注、大自在天のこと、ヒンズー教の最高神。)と毘紐天(注、自在天のこと、バラモン教の最高神。)のことを、『二天』と称しています。


 そして、この『二天』のことを、一切衆生の慈父・悲母、あるいは、天尊・主君と呼んでいます。

 また、外道においては、迦毘羅・ウルソウギャ・勒娑婆、この三人のことを、『三仙』と称しています。


 この三人は、釈尊御出世以前八百年頃の仙人であります。
 そして、この三人の仙人の所説を、『四ヴェーダ』と称しています。
 『四ヴェーダ』の教典は、六万蔵にも達するほど、大量にあります。

 その後、釈尊が御出世された頃には、六師外道がこれらの外道の教典を習伝して、五天竺(インド全体)の王の師となっていました。
 その分派は、九十五~九十六流派にも及んでいました。

 これらの流派が更に分派して、それそれが自らを慢ずる様子の高いことは、非想天(有頂天)にも過ぎるほどでした。
 また、執着する心の堅いことは、金や石にも超えるものでした。

 しかしながら、インドの外道の思想が深くて巧みである様子は、中国の儒家以上でありました。

 或る者は、過去世の二生・三生、乃至、七生を見通し、更には、八万劫という長い時間を照見することが出来ました。
 また、加えて、未来世の八万劫という長い時間を知ることも出来ました。

 その所説の法門の極理は、『因中有果』『因中無果』『因中亦有果亦無果』等でありました。
 また、これらは、外道の極理でもありました。

 所謂、外道の中でも善い外道は、五戒や十善戒等を持って、有漏(注、煩悩を断っていないこと)の禅定を修行しました。
 そして、上方を見ては、色界や無色界を見極めた上で、「上の世界には、涅槃がある。」と目標を立てて、尺取り虫のように攻め上っていきました。

 けれども、かえって、非想天(有頂天)から、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしまいました。そして、一人として、天に留る者はいませんでした。
 にもかかわらず、「天を極めた者は、永く帰ってこないのだ。」と、誤解されていました。

 各々の外道は、自師の義を受けて、堅く執着していました。

 故に、或る者は冬の寒い日に三度もガンジス河に浴したり、或る者は髪の毛を抜いたり、或る者は岩石に身を投げたり、或る者は身を火にあぶったり、或る者は五体を焼いたりしました。
 そして、或る者は裸形で生活したり、或る者は馬を多く殺したら福が来ると信じたり、或る者は草木を焼いたり、或る者は一切の木を礼拝したりしました。

 これらの邪義は、数えることが出来ないほどでした。
 外道が自らの師を恭敬する様子は、あたかも、諸天が帝釈天王を敬ったり、諸の臣下が皇帝を拝しているようでした。

 しかしながら、九十五種の外道の法では、善きにつけ悪しきにつけ、一人も生死を離れることは出来ません。

 善師に仕えては、二度・三度と生まれ変わってくる度に、悪道へ堕ちてしまいました。
 悪師に仕えては、生まれ変わる度に、毎回悪道へ堕ちてしまいました。

 外道の最大の意義は、内道(仏教)に入るための最要の法門であることです。

 或る外道は、「千年以後に、仏が出世する。」等と、云いました。
 或る外道は、「百年以後に、仏が出世する。」等と、云いました。

 大涅槃経には、「一切世間の外道の経書は、皆、これ仏説にして、外道の説ではない。」等と、仰せになられています。

 法華経五百弟子受記品第八には、「衆生に対しては、貪・瞋・痴の三毒が有ることを示している。また、邪見の相を現じていることを示している。私(釈尊)の弟子たちよ、私(釈尊)は、このように方便を示して、衆生を救済している。」等と、仰せになられています。

 第三には、大覚世尊が一切衆生の大導師であり、大眼目であり、大橋梁であり、大船師であり、大福田であることについて申し上げます。

 儒教や外道の『四聖』や『三仙』は、聖人としての名が聞こえてはいても、現実には、
見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑が、未だに断たれていない凡夫であります。
 また、賢人としての名が聞こえてはいても、現実には、因果を弁えていない様子は赤ん坊のようなものであります。

 どうして、彼等の存在を船として、生死の大海を渡ることが出来るのでしょうか。
 どうして、彼等の存在を橋として、六道輪廻の巷(ちまた)を越えていくことが出来るのでしょうか。

 我等の偉大なる師である釈尊は、仏としての生死の変易を超越されています。
 ましてや、六道輪廻を繰り返す人間としての生死を超越されていることは、申し上げるまでもありません。

 また、釈尊は、生死を流転する根本原因となる、元品の無明の煩悩を超越されています。
 ましてや、見惑や思惑等の枝葉末節な煩悩を超越されていることは、申し上げるまでもありません。

 この仏陀(釈尊)は、三十歳にして成道(成仏)されてから八十歳で御入滅されるまで、五十年の間に御一代の聖教をお説きになられました。
 一字一句は、皆、真実の言であります。一文一偈は、すべて、妄語ではありません。

 儒教や外道の中の聖人や賢人の言葉でさえ、言っていることには、誤りがありません。
 行っている事と心は、互いに符合しています。

 ましてや、仏陀(釈尊)は、数え切れないほど遠い昔から、不妄語の人であります。
 ならば、御一代五十余年の御説教は、儒教や外道と比較すれば、大乗の教えとなります。また、大人の実語であります。

 三十歳にして初めて成道(成仏)されてから、八十歳で涅槃の夕べ(御入滅)に至るまで、お説きになられた所説は、皆、真実であります。

 ただし、仏教においては、八万法蔵にも及ぶ五十余年の経々を勘えてみると、小乗の教えもあれば大乗の教えもあれば、権経の教えもあれば実経の教えもあります。
 また、『顕教・密教』、『軟語・粗語』、『実語・妄語』、『正見・邪見』等の種々の差別があります。

 しかし、法華経だけは、教主釈尊の正言であります。
 過去世・現世・未来世、及び、十方世界における、諸仏の真言(真実の言)であります。

 大覚世尊は、法華経以前にお説きになられた四十余年の年限を指して、その中の膨大な諸経(爾前経)を「未顕真実(未だ真実を顕さず)」と認定されました。


 一方、八年間にお説きになられた法華経は、「要当説真実(当に、必ずや真実を説かれるであろう)」とお定めになられました。

 すると、多宝如来が大地より出現されて、「皆是真実(皆、これ真実なり)」と証明されました。
 そして、十方分身の諸仏も来集されて、長い舌を梵天に付けました。

 これらの経文のお言葉は、赫々(かくかく)であり、明々であります。
 晴天の日よりも明らかである様子は、あたかも、夜中の満月のようであります。
 仰いで、信じなさい。伏して、懐(おも)いなさい。

 ただし、法華経には、二箇の大事(法華経迹門における『十界互具』、法華経本門における『久遠実成』)があります。

 倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は、その二箇の大事の名前すら知りません。
 華厳宗と真言宗の二宗は、密かにその義を盗んで、自宗の骨目(肝要な教義)としています。

 一念三千の法門は、ただ、法華経の本門寿量品の文底に沈められています。

 竜樹菩薩や天親菩薩は、そのことを知りながらも、一念三千の法門を拾い出して、他の人に弘めることはありませんでした。
 ただ、我が天台智者大師だけが、一念三千の法門を懐いていたのであります。

 一念三千は、十界互具ということから展開されます。
 法相宗と三論宗は八界を立てるだけで、十界を知りません。
 ましてや、十界互具は、到底知る由もありません。 

 倶舎宗・成実宗・律宗等は、阿含経によって、教義を展開しています。

 しかし、地獄界から天界までの六界を明らかにしているものの、声聞界から仏界までの四界を知りません。
 また、「十方世界の中では、ただ釈尊のみが、唯一の仏である。」と主張して、それぞれの世界に、仏がいることを明かしていません。

 それでは、「一切の生きとし生ける者には、悉く仏性がある。」ということを、説けるわけがありません。
 たとえ一人の者でさえ、仏性の存在を許していないからであります。

 にもかかわらず、律宗や成実宗等の者どもが、「十方世界に、仏がいる。仏性がある。」等と申していることは、釈尊御入滅後の人師等の大乗の義を、自らの宗義に盗み入れたものであります。

 たとえば、儒教や外道等の中でも、仏教が説かれる前の外道は、まだ、執着の見解が浅かったのであります。

 しかし、仏教が説かれた後の外道は、仏教の教えを聞いたり見たりすることによって、自宗の非を知りながらも、狡猾な心が出現して、仏教を盗み取るようになりました。
 つまり、仏教の教えを自らの宗派に入れることによって、仏教が説かれた後の外道の邪見が、もっとも深くなったのであります。
 このことを、『仏教に附いて、仏法を学して、外道と成る者。』等と云います。

 儒教についても、同様であります。
 未だに、仏法が中国へ渡来していなかった時の儒家や道家は、ゆったりとしていて嬰児(赤ん坊)のように、稚拙でありました。

 しかし、後漢の時代以降に釈尊の教えが渡来して、儒家や道家との対論の後に、釈尊の教えがだんだんと流布していくに従って、仏教の僧侶が戒律を破っていったために、或る者は還俗して家に帰ったり、或る者は俗人に迎合したり、或る者は儒教の中に釈尊の教えを盗み入れるようになりました。

 天台大師は、『摩詞止観』の第五の巻において、このように仰せになられています。

 「今の世においては、悪魔の僧侶が多く有って、戒律を守れずに家に還って、処罰されることを恐れて、更には道教士へ転向してしまう。
 また、名利を求めて、荘子や老子の教えを誇張して語り、仏法の義を盗んで、儒教や道教の邪典を解釈している。
 そして、高い教えを押し潰して下劣な教えに付けたり、尊い教えを砕いて卑しい教えに入れたりすることによって、概して平等と為している。」と。

 妙楽大師は、『摩詞止観弘決』において、前記の『摩詞止観』の文を解釈して、このように仰せになられています。

 「僧侶の身となって、仏法を破滅している者、もしくは、戒律を守れずに還俗した者が、仏法を破っていることは、あたかも、衛の元嵩(中国北周時代の廃仏論者)等のようである。
 つまり、彼等は、在家の身を以て、仏法を破壊しているのである。

 これらの人々は、仏教の正教を盗んで、道教の邪典に添加したのである。

 そして、高い教えと下劣な教え、尊い教えと卑しい教えを混ぜるということは、道教士の心を用いた上で、仏教と道教を合わせたものを二教の概略と為して、邪教と正教を同等に解釈してしまった、ということである。

 彼等の義には、道理がない。
 かつて、仏法に入門したことを悪用して、仏教の正教を盗んで、道教の邪典を助けて、八万四千法蔵・十二部経の高い教え(仏教)を、わずか五千余言・上下二篇の下劣な教え(道教)に添付して、道教の邪(よこし)まで辺鄙(へんぴ)な教えを解釈している。
 このことを、『摧尊入卑』と、名付ける。」と。

 これらの解釈を、よく御覧ください。
 これらは、先に述べた、仏教盗用の実例であります。

 このような盗用の例は、仏教でも行われました。

 後漢の永平の時代に、仏法が中国に渡り、邪典(道教)が破られて、内典(仏教)が立てられました。
 そして、内典(仏教)の間に、南三・北七の宗派の確執が起こって、それぞれの宗派が盛んに、宗義を唱えました。

 けれども、陳・隋の時代に、天台智者大師が出現されて、南三・北七の宗派の義を破折されたために、仏法は再び大衆を救うことになりました。

 その後、法相宗や真言宗が、インドから中国へ渡来してきました。また、華厳宗も到来しました。
 これらの宗派の中で、法相宗は、完全に天台宗を敵とする宗派であって、法相宗と天台宗の法門は、水火の如く正反対でした。

 しかしながら、玄奘三蔵や慈恩大師は、委細に天台大師の御解釈を見ていく程に、自宗(法相宗)の邪見に氣が付いたため、自宗(法相宗)は捨てなかったものの、玄奘三蔵や慈恩大師の心は、天台大師へ帰伏したかのように見えました。

 華厳宗と真言宗は、本来、権経・権宗であります。

 真言宗の祖である善無畏三蔵や金剛智三蔵は、天台大師の一念三千の義を盗みとって、真言宗の肝心とした上で、一念三千の義の上に、印と真言を加えて、「真言宗は、天台宗に超過している。」という慢心を起こしてしまいました。

 それらの詳細を知らない学者たちは、「天竺(インド)においては、大日経に一念三千の法門が備わっていた。」と、思い込んでいました。

 華厳宗は、第四祖澄観の時代において、華厳経の『心如工画師(心は、工みなる画師の如し。)』という経文の解釈に、天台大師の一念三千の法門を盗み入れました。
 ところが、後世の人は、このことを知らないのであります。

 我が日本国には、天台宗や真言宗が伝来する前に、華厳宗等の南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)が渡来しています。
 そのうち、華厳宗と三論宗と法相宗は、水火のように論争を行って、それぞれの主張が正反対でした。

 伝教大師は、この国に出生されて、南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)の邪見を破るだけでなく、真言宗が天台大師の法華経の一念三千の理を盗み取って、真言宗の極意としている事をはっきりさせました。


 そして、伝教大師は、各宗の人師の異執を排除した上で、専ら経文を前面に打ち出して、邪義を責められました。

 すると、南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)の高僧八人・十二人・十四人・三百余人、並びに、弘法大師等が責め落とされて、日本国中の人々が一人も漏れなく天台宗に帰伏しました。


 その上、南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)、真言宗の中心寺院である東寺、日本全国の山寺は、皆、比叡山の末寺となりました。


 また、伝教大師は、中国の諸宗の元祖たちが天台大師に帰伏して、謗法の失を免れたこともはっきりさせたのであります。

 けれども、その後、段々と世が衰えて、人々の智慧が浅くなっていったために、天台大師の深義が習われることなく、失われていきました。


 他宗の執心が強盛になるほどに、南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)に真言宗を加えた七宗に、天台宗が次第に貶められて弱体化していったため、結果的には、南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)や真言宗にも及ばなくなってしまいました。

 ましてや、論議にもならないはずの禅宗や浄土宗にも貶められて、始めは、天台宗の檀家が少しずつ禅宗や浄土宗の邪宗へ移っていきました。


 結局は、天台宗の碩徳と仰がれている人々が、皆、堕落して、禅宗や浄土宗の邪宗を助ける有様になりました。

 こうして、南都六宗(三論・法相・華厳・律・成実・倶舎)に天台宗・真言宗を加えた八宗の田畑や所領は、皆、倒されて、正法が失われてしまいました。


 天照太神や正八幡大菩薩や山王等の守護の諸天善神も、仏法の法味をなめることが出来なくなってしまいました。


 そのために、諸天善神が日本国中から去っていった結果、悪鬼が便りを得て、まさに、この国は破れようとしています。

 ここに、予(日蓮大聖人)が愚見をもって、釈尊が法華経を説かれる以前に爾前経を説かれていた四十余年間と、法華経を説かれてからの八年間との相違を勘えてみると、その相違点は多いのです。

 けれども、まず世間の学者も認めて、我が身(日蓮大聖人)にも、そうであろうと思われる相違点は、法華経迹門における『二乗作仏』(注、声聞・縁覚が成仏すること。それにより、一念三千の法門が成立して、あらゆる衆生の成仏が可能になる。)と、法華経本門における『久遠実成』(注、五百塵点劫という久遠の昔に成仏されていたことを、釈尊御自身がお説きになられたこと。)であります。

 法華経の経文を拝見すると、舎利弗は華光如来に、迦葉は光明如来に、須菩提は名相如来に、迦旃延は閻浮那提金光如来に、目連は多摩羅跋栴檀香仏に、富楼那は法明如来に、阿難は山海慧自在通王仏に、ラゴラは蹈七宝華如来に、五百・七百の比丘や阿羅漢は普明如来に、学・無学の二千人は宝相如来に、摩訶波闍波提比丘尼・耶輸多羅比丘尼等は一切衆生喜見如来・具足千万光相如来等というように、相次いで、成仏の記別を受けています。

 これらの人々は、法華経を拝見し奉る時には、尊き人々のようですけれども、爾前の経々を披見する時には、興ざめになってしまうことが多いのであります。

 その理由を申し上げます。

 仏・世尊(釈尊)は、実語の人であるが故に、『聖人・大人』と号しています。

 儒教や外道において、『賢人・聖人・天仙』等と申していることは、実語を述べているが故に付けられた名前であります。
 しかし、釈尊は、これらの人々よりも勝れて、第一の存在であるが故に、『大人』と呼ばれているのです。

 この『大人』である釈尊が、「ただ一大事の因縁を以ての故に、世に出現される」ことを明かされています。

 法華経をお説きになられる直前の無量義経において、「未だ真実を顕さず」と仰せになられた上で、法華経方便品第二において、「世尊は長い間の御説法の後に、必ず、当に、真実を説かれるであろう。」「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く。」等と、仰せになられています。

 法華経見宝塔品第十一においては、多宝仏が証明を加えられたり、十方の分身の諸仏が舌を出して、法華経が真実の教えであることを讃歎されています。

 従って、舎利弗が未来の華光如来となることや、迦葉が未来の光明如来となること等の記別を与えられたことに対して、誰が、疑問を起こすことが出来るでしょうか。