開目抄 上 (原文・前半)


 文永九年(1272年)二月 聖寿五十一歳御著作

 夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。
 又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり。
 儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。
 三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす。
 所謂、重華はかたくなわしき父をうやまひ、沛公は帝となって大公を拝す。武王は西伯を木像に造り、丁蘭は母の形をきざめり。此等は孝の手本なり。
 比干は殷の世のほろぶべきを見て、しゐて帝をいさめ頭をはねらる。弘演といゐし者は懿公の肝をとって、我が腹をさき、肝を入れて死しぬ。此等は忠の手本なり。
 尹寿は尭王の師、務成は舜王の師、太公望は文王の師、老子は孔子の師なり。此等を四聖とがうす。天尊頭をかたぶけ、万民掌をあわす。
 此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり。其の所詮は三玄をいでず。
 三玄とは、一には有の玄、周公等此を立つ。二には無の玄、老子等。三には亦有亦無等、荘子が玄これなり。
 玄とは黒なり。父母未生已前をたづぬれば、或は元氣より生ず。或は貴賎・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。
かくのごとく巧みに立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。
 玄とは、黒なり、幽なり。かるがゆへに玄という。但現在計りしれるににたり。現在にをひて仁義を制して身をまぼり、国を安んず。此に相違すれば、族をほろばし家を亡ぼす等いう。
 此等の賢聖の人々は聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背を見ず、未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし。
 但現在に家を治め、孝をいたし、堅く五常を行ずれば、傍輩もうやまい、名も国にきこえ、賢王もこれを召して或は臣となし、或は師とたのみ、或は位をゆづり、天も来たって守りつかう。
 所謂周の武王には五老きたりつかえ、後漢の光武には二十八宿来たって二十八将となりし此なり。
 而りといえども、過去・未来をしらざれば、父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり。まことの賢聖にあらず。
孔子が「此の土に賢聖なし、西方に仏図という者あり、此聖人なり。」といゐて、外典を仏法の初門となせしこれなり。
 礼楽等を教へて、内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ。
 妙楽大師云はく「仏教の流化実に茲に頼る。礼楽前に馳せて真道後に啓く」等云云。
 天台云はく「金光明経に云はく、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば即ち是仏法なり」等云云。
 止観に云はく「我れ三聖を遣はして彼の真丹を化す」等云云。
 弘決に云はく「清浄法行経に云はく、月光菩薩彼に顔回と称し、光浄菩薩彼に仲尼と称し、迦葉菩薩彼に老子と称す。天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
 二には月氏の外道、三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天、此の二天をば一切衆生の慈父悲母、又天尊主君と号す。
 迦毘羅・ウルソウギャ・勒娑婆、此の三人をば三仙となづく。
 此等は仏前八百年、已前已後の仙人なり。此の三仙の所説を四韋陀と号す、六万蔵あり。
 乃至仏出世に当たって、六師外道、此の外経を習伝して五天竺の王の師となる。支流九十五六等にもなれり。
 一々に流々多くして、我慢の幢高きこと非想天にもすぎ、執心の心の堅きこと金石にも超えたり。
 其の見の深きこと巧みなるさま、儒家にはにるべくもなし。或は過去二生・三生、乃至七生・八万劫を照見し、又兼ねて未来八万劫をしる。
 其の所説の法門の極理は、或は因中有果、或は因中無果、或は因中亦有果亦無果等云云。此外道の極理なり。
 善き外道は五戒・十善戒等を持ちて、有漏の禅定を修し、上、色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども、非想天より返って三悪道に堕つ。一人として天に留るものなし。而れども天を極むる者は永くかへらずとをもえり。
 各々自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日に三度恒河に浴し、或は髪をぬき、或は巌に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく。或は裸形、或は馬を多く殺せば福をう、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。
 此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬する事諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。
 しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。
 外道の所詮は内道に入る即ち最要なり。
 或外道云はく「千年已後仏出世す」等云云。或外道云はく「百年已後仏出世す」等云云。
 大涅槃経に云はく「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして、外道の説に非ず」等云云。
 法華経に云はく「衆に三毒有りと示し、又邪見の相を現ず、我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。
 三には大覚世尊、此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり。
 外典外道の四聖三仙、其の名は聖なりといえども、実には三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえども、実に因果を弁へざる事嬰児のごとし。
 彼を船として生死の大海をわたるべしや。彼を橋として六道の巷こえがたし。
 我が大師は変易猶をわたり給へり。況んや分段の生死をや。
 元品の無明の根本猶をかたぶけ給へり。況んや見思枝葉の麁惑をや。
 此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで、五十年が間一代の聖教を説き給へり。
一字一句皆真言なり。一文一偈妄語にあらず。
 外典外道の中の聖賢の言すら、いうことあやまりなし。事と心と相符へり。
 況んや仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人、されば一代五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり。大人の実語なるべし。
 初成道の始めより泥オンの夕べにいたるまで、説くところの所説皆真実なり。
但し仏教に入って五十余年の経々、八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教・密教、軟語・ソ語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり。
 但し法華経計り教主釈尊の正言なり。三世十方の諸仏の真言なり。
 大覚世尊は四十余年の年限を指して、其の内の恒河の諸経を未顕真実、八年の法華は要当説真実と定め給ひしかば、多宝仏大地より出現して皆是真実と証明す。分身の諸仏来集して長舌を梵天に付く。
 此の言赫々たり、明々たり。晴天の日よりもあきらかに、夜中の満月のごとし。仰いで信ぜよ。伏して懐ふべし。
 但し此の経に二箇の大事あり。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗と真言宗との二宗は偸かに盗んで自宗の骨目とせり。
 一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。
 竜樹・天親は知って、しかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。
 一念三千は十界互具よりことはじまれり。法相と三論とは八界を立てて十界をしらず。況んや互具をしるべしや。
 倶舎・成実・律宗等は阿含経によれり。六界を明らめて四界をしらず。
 十方唯有一仏と云って、一方有仏だにもあかさず。一切有情悉有仏性とこそとかざらめ。一人の仏性猶ゆるさず。
 而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは、仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし。
 例せば外典・外道等は仏前の外道は執見あさし。
 仏後の外道は仏教をききみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっともふかし。附仏教、学仏法成等これなり。
 外典も又々かくのごとし。
 漢土に仏法いまだわたらざりし時の儒家・道家は、いういうとして嬰児のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教漸く流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆへに、或は還俗して家にかへり、或は俗に心をあはせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。
 止観の第五に云はく「今の世に多く悪魔の比丘有って、戒を退き家に還り、駈策を懼畏して、更に道士に越済す。復名利を邀めて荘老を誇談し、仏法の義を以て偸んで邪典に安き、高きを押して下に就け、尊きを摧いて卑しきに入れ、概して平等ならしむ」云云。
 弘に云はく「比丘の身と作って仏法を破滅す。若しは戒を退き家に還るは衛の元嵩等が如し。即ち在家の身を以て仏法を破壊す。此の人正教を偸竊して邪典に助添す。高きを押して等とは、道士の心を以て二教の概と為し、邪正をして等しからしむ。義是の理無し。曽て仏法に入って正を偸んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下きに就け、用て彼の典の邪鄙の教へを釈するを摧尊入卑と名づく」等云云。
 此の釈を見るべし。次上の心なり。
 仏教又かくのごとし。後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。
 内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども、陳隋の智者大師にうちやぶられて、仏法二び群類をすくう。
 其の後、法相宗・真言宗天竺よりわたり、華厳宗又出来せり。
 此等の宗々の中に、法相宗は一向天台宗に敵を成す宗、法門水火なり。
 しかれども玄奘三蔵・慈恩大師、委細に天台の御釈を見ける程に、自宗の邪見ひるがへるかのゆへに、自宗をばすてねども其の心天台に帰伏すと見へたり。
 華厳宗と真言宗とは、本は権経・権宗なり。善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗みとって自宗の肝心とし、其の上に印と真言とを加へて超過の心ををこす。
 其の子細をしらぬ学者等は、天竺より大日経に一念三千の法門ありけりとうちをもう。
 華厳宗は澄観が時、華厳経の「心如工画師」の文に、天台の一念三千の法門を偸み入れたり、人これをしらず。
 日本我が朝には華厳等の六宗、天台・真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。
 伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取って自宗の極とする事あらはれをはんぬ。
 伝教大師、宗々の人師の異執をすてて、専ら経文を前として責めさせ給しかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人並びに弘法大師等せめをとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。
 又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して、謗法の失をまぬかれたる事もあらはれぬ。
 又其の後やうやく世をとろへ人の智あさくなるほどに、天台の深義は習ひうしないぬ。
 他宗の執心は強盛になるほどに、やうやく六宗七宗に天台宗をとされて、よわりゆくかのゆへに、結句は六宗七宗等にもをよばず。
 いうにかいなき禅宗・浄土宗にをとされて、始めは檀那やうやくかの邪宗にうつる。
 結句は、天台宗の碩徳と仰がる人々みなをちゆきて、彼の邪宗をたすく。さるほどに六宗八宗の田畠所領みなたをされ、正法失せはてぬ。
 天照太神・正八幡・山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去り給ふかの故に、悪鬼便りを得て国すでに破れなんとす。
 此に予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は、二乗作仏・久遠実成なるべし。
 法華経の現文を拝見するに、舎利弗は華光如来、迦葉は光明如来、須菩提は名相如来、迦旃延は閻浮那提金光如来、目連は多摩羅跋栴檀香仏、富楼那は法明如来、阿難は山海慧自在通王仏、ラゴラは蹈七宝華如来、五百・七百は普明如来、学無学二千人は宝相如来、摩訶波闍波提比丘尼・耶輸多羅比丘尼等は一切衆生喜見如来・具足千万光相如来等なり。
 此等の人々は法華経を拝見したてまつるには尊きやうなれども、爾前の経々を披見の時はけをさむる事どもをほし。
 其の故は仏世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す。
 外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし。此等の人々に勝れて第一なる故に、世尊をば大人とは申すぞかし。
 此の大人「唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したまふ」となのらせ給ひて「未だ真実を顕はさず」「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説くべし」「正直に方便を捨て」等云云。
 多宝仏証明を加へ、分身舌を出だす等は、舎利弗が未来の華光如来、迦葉が光明如来等の説をば、誰の人か疑網をなすべき。
 而れども爾前の諸経も又仏陀の実語なり。
 大方広仏華厳経に云はく「如来の智慧大薬王樹は、唯二処に於て生長して利益を為作すこと能はず。所謂二乗の無為広大の深坑に堕つると、及び善根を壊る非器の衆生の大邪見貪愛の水に溺るるとなり」等云云。
 此の経文の心は、雪山に大樹あり、無尽根となづく。此を大薬王樹と号す。閻浮提の諸木の中の大王なり。
 此の木の高さは十六万八千由旬なり。
 一閻浮提の一切の草木は、此の木の根ざし枝葉華菓の次第に随って、華菓なるなるべし。
 此の木をば仏の仏性に譬へたり。一切衆生をば一切の草木にたとう。
 但し此の大樹は、火坑と水輪の中に生長せず。二乗の心中をば火坑にたとえ、一闡提人の心中をば水輪にたとえたり。
 此の二類は永く仏になるべからずと申す経文なり。
 大集経に云はく「二種の人有り。必ず死して活きず、畢竟して恩を知り恩を報ずること能はず。一には声聞、二には縁覚なり。譬へば人有りて深坑に堕墜せん、是の人自ら利し他を利すること能はざるが如く、声聞・縁覚も亦復是くの如し。解脱の坑に堕ちて、自ら利し及以他を利すること能はず」等云云。
 外典三千余巻の所詮に二つあり。所謂孝と忠となり。
 忠も又孝の家よりいでたり。孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。
 聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。
 仏弟子は必ず四恩をしって、知恩報恩をいたすべし。
 其の上舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒・三千の威儀持整して、味・浄・無漏の三静慮、阿含経をきわめ、三界の見思を尽くせり。知恩報恩の人の手本なるべし。然るを不知恩の人なりと世尊定め給ひぬ。其の故は、父母の家を出でて出家の身となるは、必ず父母をすくはんがためなり。
 二乗は自身は解脱とをもえども、利他の行かけぬ。設ひ分々の利他ありといえども、父母等を永不成仏の道に入るれば、かへりて不知恩の者となる。
 維摩経に云はく「維摩詰又文殊師利に問ふ、何等をか如来の種と為す。答へて曰く、一切塵労の疇は如来の種と為る。五無間を以て具すと雖も、猶能く此の大道意を発こす」等云云。
 又云はく「譬へば族姓の子、高原陸土には青蓮芙蓉衡華を生ぜず、卑湿汚田に乃ち此の華を生ずるが如し」等云云。
 又云はく「已に阿羅漢を得て応真と為る者は、終に復道意を起こして仏法を具すること能はざるなり。根敗の士其の五楽に於て、復利すること能はざるが如し」等云云。
 文の心は、貪・瞋・癡の三毒は仏の種となるべし、殺父等の五逆罪は仏種となるべし、高原陸土には青蓮華生ずべし、二乗は仏になるべからず。いう心は、二乗の諸善と凡夫の悪と相対するに、凡夫の悪は仏になるとも、二乗の善は仏にならじとなり。
 諸の小乗経には、悪をいましめ善をほむ。此の経には二乗の善をそしり、凡夫の悪をほめたり。
 かへって仏経ともおぼへず、外道の法門のやうなれども、詮するところは、二乗の永不成仏をつよく定めさせ給ふにや。
 方等陀羅尼経に云はく「文殊、舎利弗に語らく、猶枯樹の如き更に華を生ずるや不や。亦山水の如き本処に還るや不や。折石還って合ふや不や。焦種芽を生ずるや不や。舎利弗の言はく、不なり。文殊の言はく、若し得べからずんば云何ぞ、我に菩提の記を得んやと問うて、心に歓喜を生ずるや」等云云。
 文の心は、枯れたる木、華さかず、山水、山にかへらず、破れたる石あはず、いれる種をいず、二乗またかくのごとし。仏種をいれり等となん。
 大品般若経に云はく「諸の天子、今未だ三菩提心を発こさざる者は、応に発こすべし。若し声聞の正位に入れば、是の人能く三菩提心を発こさざるなり。何を以ての故に。生死の為に障隔を作す故」等云云。
 文の心は、二乗は菩提心ををこさざれば我随喜せじ、諸天は菩提心ををこせば我随喜せん。
 首楞厳経に云はく「五逆罪の人、是の首楞厳三昧を聞いて、阿耨菩提心を発こせば、還って仏と作るを得。世尊、漏尽の阿羅漢は猶破器の如く、永く是の三昧を受くるに堪忍せず」等云云。
 浄名経に云はく「其れ汝に施す者は福田と名づけず。汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云。
 文の心は、迦葉・舎利弗等の聖僧を供養せん人天等は、必ず三悪道に堕つべしとなり。
 此等の聖僧は、仏陀を除きたてまつりては人天の眼目、一切衆生の導師とこそをもひしに、幾許の人天大会の中にして、かう度々仰せられしは本意なかりし事なり。
 只詮ずるところは、我が御弟子を責めころさんとにや。
 此の外、牛驢の二乳、瓦器金器、螢火日光等の無量の譬へをとって、二乗を呵嘖せさせ給ひき。
 一言二言ならず、一日二日ならず、一月二月ならず、一年二年ならず、一経二経ならず、四十余年が間無量無辺の経々に、無量の大会の諸人に対して、一言もゆるし給ふ事もなくそしり給ひしかば、世尊の不妄語なり。我もしる、人もしる、天もしる、地もしる。一人二人ならず百千万人、三界の諸天・竜神・阿修羅・五天・四洲・六欲・色・無色・十方世界より雲集せる人天・二乗・大菩薩等、皆これをしる、又皆これをきく。
 各々国々へ還って、娑婆世界の釈尊の説法を彼々の国々にして一々にかたるに、十方無辺の世界の一切衆生、一人もなく、迦葉・舎利弗等は永不成仏の者、供養してはあしかりぬべしとしりぬ。
 而るを後八年の法華経に忽に悔い還して、二乗作仏すべしと、仏陀とかせ給はんに、人天大会、信仰をなすべしや。用ゆべからざる上、先後の経々に疑網をなし、五十余年の説教皆虚妄の説となりなん。
 されば「四十余年未顕真実」等の経文はあらませしが、天魔の仏陀と現じて、後八年の経をばとかせ給ふかと疑網するところに、げにげにしげに劫国名号と申して、二乗成仏の国をさだめ、劫をしるし、所化の弟子なんどを定めさせ給へば、教主釈尊の御語すでに二言になりぬ。
 自語相違と申すはこれなり。外道が仏陀を大妄語の者と咲ひしことこれなり。

 人天大会けをさめてありし程に、爾の時に東方宝浄世界の多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて、教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて、とのべかうのべ、さまざまに宣べさせ給ひしかども、不審猶はるべしとも見へず、もてあつかいてをはせし時、仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給ふ。
 例せば、暗夜に満月の東山より出づるがごとし。
 七宝の塔大虚にかからせ給ひて、大地にもつかず、大虚にも付かせ給わず。天中に懸かりて、宝塔の中より梵音声を出だして証明して云はく、「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて言はく、善きかな善きかな、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたまふ。是くの如し是くの如し。釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是真実なり」等云云。
 又云はく「爾の時に世尊、文殊師利等の、無量百千万億・旧住娑婆世界の菩薩、乃至、人非人等の一切の衆の前に於て、大神力を現じたまふ。広長舌を出だして、上梵世に至らしめ、一切の毛孔より、乃至、十方世界、衆の宝樹の下の、師子の座の上の諸仏も、亦復是くの如く、広長舌を出だし無量の光を放ちたまふ」等云云。
 又云はく「十方より来たりたまへる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめ、乃至、多宝仏の塔、還って故の如くしたまふべし」等云云。
 大覚世尊初成道の時、諸仏十方に現じて釈尊を慰諭し給ふ上、諸の大菩薩を遣はしき。
 般若経の御時は、釈尊長舌を三千にをほひ、千仏十方に現じ給ふ。金光明経には、四方の四仏現ぜり。阿弥陀経には、六方の諸仏、舌を三千にををう。大集経には、十方の諸仏菩薩、大宝坊にあつまれり。
 此等を法華経に引き合はせてかんがうるに、黄石と黄金と、白雲と白山と、白氷と銀鏡と、黒色と青色とをば、翳眼の者・眇目の者・一眼の者・邪眼の者は見たがへつべし。
 華厳経には、先後の経なければ仏語相違なし。なににつけてか大疑いで来べき。
 大集経・大品経・金光明経・阿弥陀経等は、諸小乗経の二乗を弾呵せんがために、十方に浄土をとき、凡夫・菩薩を欣慕せしめ、二乗をわづらわす。
 小乗経と諸大乗経と一分の相違あるゆへに、或は十方に仏現じ給ひ、或は十方より大菩薩をつかわし、或は十方世界にも此の経をとくよしをしめし、或は十方より諸仏あつまり給ふ。或は釈尊、舌を三千におおい、或は諸仏の舌をいだすよしをとかせ給ふ。
 此ひとえに諸小乗経の十方世界唯有一仏ととかせ給ひしをもひをやぶるなるべし。
 法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違出来して、舎利弗等の諸の声聞・大菩薩・人天等に将非魔作仏とをもはれさせ給ふ大事にはあらず。
 而るを華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼の輩、彼々の経々と法華経とは同じとうちをもへるは、つたなき眼なるべし。
 但在世は四十余年をすてて法華経につき候ものもやありけん。仏滅後に此の経文を開見して信受せんことかたかるべし。
 先づ一には、爾前の経々は多言なり、法華経は一言なり。爾前の経々は多経なり、此の経は一経なり。彼々の経々は多年なり、此の経は八年なり。
 仏は大妄語の人、永く信ずべからず。不信の上に信を立てば、爾前の経々は信ずる事もありなん。法華経は永く信ずべからず。
 当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。
 其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり。
 日蓮云はく、「日本に仏法わたりてすでに七百余年、但伝教大師一人計り法華経をよめり」と申すをば、諸人これを用ひず。
 但し法華経に云はく、「若し須弥を接って、他方の無数の仏土に擲げ置かんも、亦未だ難しと為ず。乃至、若し仏の滅後に、悪世中に於て能く此の経を説かん、是則ち難しとす」等云云。
 日蓮が強義、経文には普合せり。
 法華経の流通たる涅槃経に、末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし。正法の者は爪上の土のごとしととかれて候は、いかんがし候べき。
 日本の諸人は爪上の土か、日蓮は十方の土か、よくよく思惟あるべし。
 賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人の世に法華経の実義顕はるべし等と心うべし。
 此の法門は迹門と爾前と相対して、爾前の強きやうにをぼゆ。もし爾前つよるならば、舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし。いかんがなげかせ給ふらん。
 二には教主釈尊は住劫第九の減、人寿百歳の時、師子頬王には孫、浄飯王には嫡子、童子悉達太子一切義成就菩薩これなり。
 御年十九の御出家、三十成道の世尊、始め寂滅道場にして、実報華王の儀式を示現して、十玄六相・法界円融・頓極微妙の大法を説き給ひ、十方の諸仏も顕現し、一切の菩薩も雲集せり。
 土といゐ、機といゐ、諸仏といゐ、始めといゐ、何事につけてか大法を秘し給ふべき。
 されば経文には「顕現自在力演説円満経」等云云。一部六十巻は一字一点もなく円満経なり。
 譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ。一珠も万宝を尽くして雨らし、万珠も万宝を尽くすがごとし。華厳経は一字も万字も但同事なるべし。
 「心仏及衆生」の文は華厳宗の肝心なるのみならず、法相・三論・真言・天台の肝要とこそ申し候へ。此等程いみじき御経に何事をか隠すべき。
 なれども二乗・闡提不成仏ととかれしは、珠のきずとみゆる上、三処まで始成正覚となのらせ給ひて、久遠実成の寿量品を説きかくさせ給ひき。
 珠の破れたると、月に雲のかかれると、日の蝕したるがごとし。不思議なりしことなり。
 阿含・方等・般若・大日経等は仏説なればいみじき事なれども、華厳経にたいすればいうにかいなし。彼の経に秘せんこと、此等の経々にとかるべからず。
 されば雑阿含経に云はく「初め成道」等云云。大集経に云はく「如来成道始め十六年」等云云。浄名経に云はく「始め仏樹に坐して力めて魔を降す」等云云。大日経に云はく「我昔道場に坐して」等云云。仁王般若経に云はく「二十九年」等云云。
 此等は言ふにたらず。只耳目ををどろかす事は、無量義経に、華厳経の唯心法界、方等・般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて、或は未顕真実、或は歴劫修行等下す程の御経に、「我先に道場菩提樹の下に端坐すること六年、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり」と初成道の華厳経の「始成」の文に同ぜられし、不思議と打ち思ふところに、此は法華経の序分なれば正宗の事をばいはずもあるべし。
 法華経の正宗、略開三・広開三の御時「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」等、「世尊法久後」等、「正直捨方便」等。多宝仏、迹門八品を指して「皆是真実」と証明せられしに、何事をか隠すべきなれども、久遠寿量をば秘せさせ給ひて「我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す」等云云。
 最第一の大不思議なり。
 されば弥勒菩薩、涌出品に四十余年の未見今見の大菩薩を、仏、「爾して乃ち之を教化して初めて道心を発こさしむ」等ととかせ給ひしを疑って云はく、「如来太子たりし時、釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまへり。是より已来、始めて四十余年を過ぎたり。世尊、云何ぞ、此の少時に於て、大いに仏事を作したまへる」等云云。
 教主釈尊此等の疑ひを晴らさんがために寿量品をとかんとして、爾前迹門のききを挙げて云はく「一切世間の天人及び阿修羅は皆、今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまへりと謂へり」等云云。
 正しく此の疑ひに答へて云はく「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云。
 華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給へり。 
 此等の経々に二つの失あり。
 一には「行布を存するが故に仍未だ権を開せず」と、迹門の一念三千をかくせり。
 二には「始成を言ふが故にかつて未だ迹を発せず」と、本門の久遠をかくせり。
 此等の二つの大法は一代の綱骨、一切経の心髄なり。
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。
 しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり。
 本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。
 九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。

 かうてかへりみれば、華厳経の台上十方、阿含経の小釈迦、方等・般若の、金光明経の、阿弥陀経の、大日経等の権仏等は、此の寿量の仏の天月、しばらく影を大小の器にして浮かべ給ふを、諸宗の学者等、近くは自宗に迷ひ、遠くは法華経の寿量品をしらず、水中の月に実月の想ひをなし、或は入って取らんとをもひ、或は縄をつけてつなぎとどめんとす。
 天台云はく「天月を識らず、但池月を観ず」等云云。
 日蓮案じて云はく、二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ。久遠実成は又にるべくもなき爾前づりなり。
 其の故は爾前・法華相対するに猶爾前こわき上、爾前のみならず、迹門十四品も一向に爾前に同ず。本門十四品も涌出・寿量の二品を除きては皆始成を存せり。
 双林最後の大般涅槃経四十巻、其の外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず。
 いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてて、但涌出・寿量の二品には付くべき。
 されば法相宗と申す宗は、西天の仏滅後九百年に無著菩薩と申す大論師有しき。
 夜は都率の内院にのぼり、弥勒菩薩に対面して一代聖教の不審をひらき、昼は阿輸舎国にして法相の法門を弘め給ふ。彼の御弟子は世親・護法・難陀・戒賢等の大論師なり。
 戒日大王頭をかたぶけ、五天幢を倒して、此に帰依す。
 尸那国の玄奘三蔵、月氏にいたりて十七年、印度百三十余の国々を見ききて、諸宗をばふりすて、此の宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさづけ給ひ、肪・尚・光・基を弟子として、大慈恩寺並びに三百六十余箇国に弘め給ふ。
 日本国には人王三十七代孝徳天皇の御宇に、道慈・道昭等ならいわたして山階寺にあがめ給へり、三国第一の宗なるべし。
 此の宗の云はく、始め華厳経より終はり法華・涅槃経にいたるまで、無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず。仏語に二言なし。一度永不成仏と定め給ひぬる上は、日月は地に落ち給ふとも、大地は反覆すとも、永く変改有るべからず。
 されば法華経・涅槃経の中にも、爾前の経々に嫌ひし無性有情・決定性を正しくついさして成仏すとはとかれず。まづ眼を閉ぢて案ぜよ。
 法華経・涅槃経に、決定性・無性有情、正しく仏になるならば、無著・世親ほどの大論師、玄奘・慈恩ほどの三蔵人師、これをみざるべしや。此をのせざるべしや。これを信じて伝へざるべしや。弥勒菩薩に問ひたてまつらざるべしや。

 汝は法華経の文に依るやうなれども、天台・妙楽・伝教の僻見を信受して、其の見をもって経文をみるゆえに、爾前に法華経は水火なりと見るなり。
 華厳宗と真言宗は、法相・三論にはにるべくもなき超過の宗なり。二乗作仏・久遠実成は法華経に限らず、華厳経・大日経に分明なり。
 華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空等は、天台・伝教にはにるべくもなき高位の人、其の上、善無畏等は大日如来より糸みだれさる相承あり。
 此等の権化の人、いかでか誤りあるべき。
 随って華厳経には「或は釈迦仏道を成じ已はって、不可思議劫を経るを見る」等云云。
 大日経には「我は一切の本初なり」等云云。
 何ぞ但久遠実成、寿量品に限らん。譬へば、井底の蝦が大海を見ず、山左が洛中をしらざるがごとし。
 汝但寿量の一品を見て、華厳・大日経等の諸経をしらざるか。其の上、月氏・尸那・新羅・百済等にも一同に、二乗作仏・久遠実成は法華経に限るというか。
 されば八箇年の経は四十余年の経々には相違せりというとも、先判後判の中には後判につくべしというとも、猶爾前づりにこそおぼうれ。
 又但在世計りならばさもあるべきに、滅後に居せる論師人師、多くは爾前づりにこそ候へ。
 かう法華経は信じがたき上、世もやうやく末になれば、聖賢はやうやくかくれ、迷者はやうやく多し。
 世間の浅き事すら猶あやまりやすし。何に況んや出世の深法誤りなかるべしや。
 犢子・方広が聡敏なりし、猶大小乗経にあやまてり。無垢・摩沓が利根なりし、権実二教を弁へず。
 正法一千年の内は在世も近く、月氏の内なりし、すでにかくのごとし。況んや尸那・日本等は、国もへだて音もかはれり。人の根も鈍なり。寿命も日あさし。貪瞋癡も倍増せり。
 仏、世を去ってとし久し。仏経みなあやまれり。誰の智解か直かるべき。
 仏、涅槃経に記して云はく「末法には正法の者は爪上の土、謗法の者は十方の土」と見へぬ。
 法滅尽経に云はく「謗法の者は恒河沙、正法の者は一二の小石」と記しをき給ふ。
 千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん。
 世間の罪に依って悪道に堕つる者は爪上の土、仏法によって悪道に堕つる者は十方の土。
 俗より僧、女より尼多く悪道に堕つべし。