以前、「裁判員裁判と死刑」
と言う記事を書きましたが、「死刑の基準」と言う物があります。
通称、「永山基準」と呼ばれます。
「死刑を求刑された」または「死刑判決が出た」と言うニュースの際には、1日1度は聞く事があると思います。
「何をして死刑に相当するのか」は、確かにそうそう軽々に線を引ける物でもないし、そもそも「死刑の是非」自体がかなりの争点にもなっている訳ですが。
「秋葉原の耳かき殺人」について、「勝手な思い込みによって」「一方的な好意を持って」と言う動機に対して「そこまでハマる奴がアホ」とも言えるでしょうし、「世間的な見識、一般的な常識を持ち合わせていなかった事と、思い余っての犯行」とも言える訳です。この論理に対して「再犯の可能性は低い」「いや、そんなヤツだからこそ再犯の可能性は高いだろう」と、それぞれの考え方が出来る訳です。
逆に、「秋葉原無差別殺傷事件」は、シンデレラの如く「自分と同類(同じカテゴリー)のはずの人達が、何の悩みも無く、とても楽しそうに遊んでいる」と認知してしまった。その場を壊す事で溜飲を下げようと言うのは、癇癪を起した子供と同じロジックなのではないかと考えています。
決して秋葉原は「アキバ系が好き勝手に悪ふざけをするだけの街」では無いのですが、どうしてもメディアに取り上げられるのはそう言う側面ばかり。それを全く何も斟酌せずに鵜呑みにすれば、逆恨みと言える感情も湧いてくるでしょう。が、実際に自分を含め、「仕事をしている」人間も大勢いますし、地元の住民の方々も少なくない訳です。
また、メディアに取り上げられている側面についても、「全く何の問題も悩みも無く」生活している人なんて皆無だと思うんです。「自分が辛い→他の人間には俺の悩みが分からない→アイツラは何の悩みも苦しみも無くノウノウと遊んでいる」と思ったのではないかと。
これは非常に自己中心的と言えますが、その下地には「そう言う感情を湧き起こす材料」を無差別に広めていたマスメディアの責任も、皆無とは言えないのではないかと。
結果だけ見れば、「無関係の7人を死亡させ、多数の重軽傷者を出した」と言う点では、「確実に死刑」と言う事になりますが。
あの無差別殺傷の時が初めての大規模運営だった「トリアージタグ」の齟齬が無ければ、1人か2人は助かったかも知れないと言う問題点もありました。
そもそも「殺傷目的で他人を攻撃した」訳ですから、議論としては「トリアージタグの齟齬以前の問題」ではあるんですが、「助けられたかも知れない(=被害死亡者が減っていたかも知れない)」事は、全く無関係とも言い難いのではないかと。
もちろん、秋葉原無差別殺傷事件の犯人を擁護する気は無いですし、死刑でしかるべきだとは思いますが、それに付帯する要件(構成要素)に対して、ちょっとだけ疑義がある、と言う事です。
犯罪と刑罰は、「応報刑論」と「目的刑論」と言う概念になってしまうので、「何を目的に刑を課すのか」と言う、それぞれの立場・立ち位置によって意義が大きく変わる論点になります。
「応報刑論」は、「こう言う罪を犯したのだから、こう言う刑に服して償うべき」と言う、ある意味ハムラビ法典的なスタンスでの刑の課し方。
「目的刑論」は、「こう言う罪を犯すと、こう言う刑に服しますよ」と言う事を、本人や世間に広めて「抑止力」としての意義を持たせた物。
この辺りに、「司法専門の人間の判断(常識)」だけでは無く、「一般的な国民感情」を取り入れよう、と始まった裁判員裁判。
ですが、「一般的な国民感情」も、あくまで対岸の火事と言うか、「自分と関係無い出来事に対し、全く無責任に好き勝手に言うレベル」での国民感情であって、「自分が判決を下す(少なくとも何分の一かの議決権を持つ)責任」を課せられた場合の「個人の感情」は、これは「全く別」だった、と裁判員に選ばれた人達のコメントから読んで取れます。
とかく、議論になり易い「死刑」。
その是非は、皆さん個人個人でお考え頂ければと思います。
そして、その議論や個人的な結論について、皆さん個人が責任を持って、胸を張って「こう思う」と言って頂きたい、言えるようになって欲しい、そう言う社会であって欲しいと願っています。
決して「こうあるべき」とか、その意見の押し付け等はあってはならない事だと思っています。
が、残念ながら、世の中ではそう言う押し付けが蔓延っています。
自戒も含め、お気を付け頂きたいと。
通称、「永山基準」と呼ばれます。
「死刑を求刑された」または「死刑判決が出た」と言うニュースの際には、1日1度は聞く事があると思います。
「何をして死刑に相当するのか」は、確かにそうそう軽々に線を引ける物でもないし、そもそも「死刑の是非」自体がかなりの争点にもなっている訳ですが。
「秋葉原の耳かき殺人」について、「勝手な思い込みによって」「一方的な好意を持って」と言う動機に対して「そこまでハマる奴がアホ」とも言えるでしょうし、「世間的な見識、一般的な常識を持ち合わせていなかった事と、思い余っての犯行」とも言える訳です。この論理に対して「再犯の可能性は低い」「いや、そんなヤツだからこそ再犯の可能性は高いだろう」と、それぞれの考え方が出来る訳です。
逆に、「秋葉原無差別殺傷事件」は、シンデレラの如く「自分と同類(同じカテゴリー)のはずの人達が、何の悩みも無く、とても楽しそうに遊んでいる」と認知してしまった。その場を壊す事で溜飲を下げようと言うのは、癇癪を起した子供と同じロジックなのではないかと考えています。
決して秋葉原は「アキバ系が好き勝手に悪ふざけをするだけの街」では無いのですが、どうしてもメディアに取り上げられるのはそう言う側面ばかり。それを全く何も斟酌せずに鵜呑みにすれば、逆恨みと言える感情も湧いてくるでしょう。が、実際に自分を含め、「仕事をしている」人間も大勢いますし、地元の住民の方々も少なくない訳です。
また、メディアに取り上げられている側面についても、「全く何の問題も悩みも無く」生活している人なんて皆無だと思うんです。「自分が辛い→他の人間には俺の悩みが分からない→アイツラは何の悩みも苦しみも無くノウノウと遊んでいる」と思ったのではないかと。
これは非常に自己中心的と言えますが、その下地には「そう言う感情を湧き起こす材料」を無差別に広めていたマスメディアの責任も、皆無とは言えないのではないかと。
結果だけ見れば、「無関係の7人を死亡させ、多数の重軽傷者を出した」と言う点では、「確実に死刑」と言う事になりますが。
あの無差別殺傷の時が初めての大規模運営だった「トリアージタグ」の齟齬が無ければ、1人か2人は助かったかも知れないと言う問題点もありました。
そもそも「殺傷目的で他人を攻撃した」訳ですから、議論としては「トリアージタグの齟齬以前の問題」ではあるんですが、「助けられたかも知れない(=被害死亡者が減っていたかも知れない)」事は、全く無関係とも言い難いのではないかと。
もちろん、秋葉原無差別殺傷事件の犯人を擁護する気は無いですし、死刑でしかるべきだとは思いますが、それに付帯する要件(構成要素)に対して、ちょっとだけ疑義がある、と言う事です。
犯罪と刑罰は、「応報刑論」と「目的刑論」と言う概念になってしまうので、「何を目的に刑を課すのか」と言う、それぞれの立場・立ち位置によって意義が大きく変わる論点になります。
「応報刑論」は、「こう言う罪を犯したのだから、こう言う刑に服して償うべき」と言う、ある意味ハムラビ法典的なスタンスでの刑の課し方。
「目的刑論」は、「こう言う罪を犯すと、こう言う刑に服しますよ」と言う事を、本人や世間に広めて「抑止力」としての意義を持たせた物。
この辺りに、「司法専門の人間の判断(常識)」だけでは無く、「一般的な国民感情」を取り入れよう、と始まった裁判員裁判。
ですが、「一般的な国民感情」も、あくまで対岸の火事と言うか、「自分と関係無い出来事に対し、全く無責任に好き勝手に言うレベル」での国民感情であって、「自分が判決を下す(少なくとも何分の一かの議決権を持つ)責任」を課せられた場合の「個人の感情」は、これは「全く別」だった、と裁判員に選ばれた人達のコメントから読んで取れます。
とかく、議論になり易い「死刑」。
その是非は、皆さん個人個人でお考え頂ければと思います。
そして、その議論や個人的な結論について、皆さん個人が責任を持って、胸を張って「こう思う」と言って頂きたい、言えるようになって欲しい、そう言う社会であって欲しいと願っています。
決して「こうあるべき」とか、その意見の押し付け等はあってはならない事だと思っています。
が、残念ながら、世の中ではそう言う押し付けが蔓延っています。
自戒も含め、お気を付け頂きたいと。