むかーし、たった一度だけ本当に偶然
キラキラの秀樹に遭遇したお話です。
時はずーと遡りますが1975年の出来事でした。
↑ 1975年の秀樹
中学、高校とずっとフォーリーブスに夢中だった私は、地元三重県でのコンサートだけでは
物足りず、バイトしては春休み夏休みに大阪、名古屋、東京とせいぜい数日ですが
キャラバンについていくのが本当に楽しみでした。
卒業したら、絶対に東京へ行く、少しでも公ちゃんのそばにいたいと思い詰めていました。
両親は大学へ行って欲しかったようですが、高校二年の頃から成績はがた落ちで、
そんなの無理な話なので、なんだかんだと言い訳をして、結局都内の専門学校に入学することになりました。
(YouTubeからお借りしました)
もしも私に娘がいて、こうだったら…許せないなぁ
念願の東京暮らしが始まった頃
ベストテンがあったのだから、月曜日です。
ずっと日記をつけていたのに、その頃のだけ見当たらないのです
レッツゴーヤングの収録とベストテンが重なる日は、NHKから渋谷公会堂まで出演者は歩いて移動するので、ファンの数も多くて、そこではチラッと姿が見える程度です。
NHKに入る前に、マンションから事務所まで歩く間に(当時ジャニーズ事務所は、六本木溜池交差点の近くのフォンテーヌビルにありました、公ちゃんのマンションはそこから歩ける距離の麻布十番でした)お手紙を渡し、少しだけお話もできたので、けっこう満足していて
私は、ター坊ファンの友達と近くのお店に入って食事をすることにしました。
雀のお宿だったかな? そんな店ありましたよね?
で、かなりゆっくりして店から出てきて、さてどうしようか、出待ちをするか、マンションまで先回りするか、でも今日はまっすぐ帰らないかもよなんて話をお店の前で立ち話をしていました。
その時です。
向かいの高級そうなレストランから2,3人の男性が出てきました。なにげなくそちらを見て
ええええ、ヒデキ!!!
まぎれもなく、白いTシャツにデニムの秀樹が私たちの声に気づいてニコニコしながら
こちらにまっすぐ歩いてきたのです
秀樹といっしょに出てきた人達は先に歩いて行ってしまいました。
ど、どうしよう、完全に自分のファンだと思ってるよね友達と打ち合わせすることもできないまま、もう秀樹は目の前に!!
心臓バクバクしながら、なんか話さなきゃ…と
K子 「おいしかった?」
H 「ん~、俺、今日腹の調子悪くてさぁ」
K子 「え~、大丈夫? 正露丸のまなきゃね」
H 「うん、あるある、大丈夫だよ」
私 「半袖で寒くないの?」
H 「ぜんぜん」
というような会話をし、その後どういう流れだか思い出せないのですが
サインをもらって握手してくれました。
(ノートもペンも、そりゃ持ってますって!)
サインしながら、名前を聞かれました。
私は焦りまくり、何故か高校の友達の秀樹ファンの子の名前を言いました。
私 「ゆ、ゆうこ」
H 「字は?」
私 「字? えーと、こ、ころもへんに谷」(いちいちどもる私)
H 「ころもへん?」
私 「あの、ネにチョンって」(何を言っているのだ?)
秀樹は、私の顔を見て、ふふっと笑いました。
多分、こういうのに慣れてない田舎の子でびびりまくってるのが可笑しかったんじゃないかな?
(いいえ、公ちゃんなら慣れてるのですヨ)
友達は、自分の名前をちゃんと言ってました。
その後、お大事にねとか、頑張ってくださいとか、そういうこと言って
秀樹は、「おう!」と手を振り、NHKの方へ一人で歩いて行きました。
私たちは、しばらくそこから動くこともできず、ヘナヘナと座り込んでました。
だってねぇ焦るよねぇ
まさかまさかの展開に、気持ちがついて行かず
二人ともフォーリーブスのファンだったので、秀樹にもメンバーにも悪いことしちゃった感がありました。無言で二人で渋谷駅まで歩いて帰りました。
ちなみに名前入りのそのサインは、ちゃんと裕子さん本人に送りました。
狂喜乱舞でした。そりゃそうだわね
彼女は今も持ってるでしょうか?もう連絡とれないです。
(YouTubeからお借りしました)
何故、自分の名前を言わなかったのか、やはり公ちゃんに申し訳ないと思ったからです。
あれから45年かぁ
今、秀樹だーいすきになってること。不思議ですね。
あの時もそうだったら、どんな話をしただろう? と時々思います。
秀樹も公ちゃんも、空の上の人になってしまいましたね
私の心は、いつでもあの頃に飛んで行くのに
月日は残酷ですね。
あの頃のトキメキドキドキいつも心に持っていたい。
今も大好きだよ 公ちゃん 秀樹
長々と失礼しました。読んでくださってありがとうございます。
ではまた👋 みんみん